FC2ブログ

樹海の糸 ~4~

Category『樹海の糸』
 0
初めてのキスは非常階段で交わした。
一度それを許してしまえば、彼は会う度にあたしにキスをするようになった。
…そして、あたしもそれを拒めなかった。
頬に、唇に、…首筋に。
ふわっとした唇の感触と、彼の纏うフレグランスがいつもセットで。
彼に優しく抱きしめられる度、泣きたいほど嬉しいのに、その反面ひどく苦しかった。

あたしは明確に終末の日を思い描いている。
ずっとそんな日が来なければいいと願いながら、確実に近づいてくるその日を強く意識している。
だから、自分の中では、いつもどこかで線引きをしていた。
これより先には、彼を踏み込ませたらダメだ、と。


プロを目指すことが決まってからは、花沢類と会う時間は格段に少なくなった。
彼は受験のために、本腰を入れてバイオリンのレッスンを積んでいたからだ。
もちろん、あたしはそれを応援した。
その気持ちには一片の偽りもなかった。
会えない代わりに毎日電話をし、限られた時間の中で彼を励まし続けた。

2月に入ると、受験やその後の生活の準備のため、花沢類は渡仏した。
彼の進路が、フランスでも屈指の音楽学校に決まったのはその月末のことだった。
短かった準備期間を考えれば、花沢類の実力がどれほどのものなのかを雄弁に物語っている。あたしは涙を流し、自分のことのように彼の合格を喜んだ。


3月上旬、花沢類が一時的に帰国をすると、彼の親友達は内輪での祝賀会を催し、それにはあたしも招待された。場所は、道明寺の母親が経営するメープルホテルのラウンジで。
道明寺と和解して以降、あたしと彼以外のF3との関係はそこそこ良好だった。とはいえ、あたしは元より彼らに深入りする気はなかったので、あくまでも知人程度の親しさで。
あたしの深い苦悩をよそに、祝賀会はとても楽しいものになった。


その夜、あたしは彼とそのホテルの一室に泊まった。
それが、あたし達の進展のなさを危ぶんだ彼の悪友たちの画策だったと気付くには、あたしの思考はお子様過ぎた。
部屋で二人きりになってしまうと、花沢類はあたしを抱きしめ、深くキスをし、そしてその先を求めてきた。あたしは、…誘惑に抗えなかった。
好きだ、愛してるという彼の愛の囁きがただ嬉しくて。
彼に触れられることがただ嬉しくて。

あたし達はお互いが初めての相手だった。だけど、終始花沢類が優しくリードしてくれ、あたし達は一緒にたくさんの初めての壁を越えた。
―このまま、時が止まればいい。
彼から与えられた痛みも、悦びも、何もかもが愛おしかった。

すべてが済んでしまうと、彼は空路の旅疲れもあってそのまま寝入ってしまった。あたしを抱きしめて眠る、彼の美しい寝顔を見ていると、涙が止まらなかった。声を押し殺して泣いた。
―あたしは馬鹿だ。
―もうすぐ別れを告げるのに、彼を忘れられなくなるようなことをして。


あたしには、ずっと彼に告げていないことがあった。
年末にパパの会社が倒産し、パパが無職になってしまったこと。
再就職先が決まらないこと。
もうすぐ彼が卒業して渡仏するように、あたしも英徳を辞め、パパの縁戚を頼って仙台に居を移すこと。
自分と弟の進学の選択肢は狭められ、あたしはひどく焦っていた。
玉の輿に乗るという母の夢物語に付き合うのも、もう終わりにすべきだ、と。

花沢類は渡仏してからも自分達の関係は保ち続けたいと言ってくれた。
あたしとの将来を考えている、自分が日本に戻るのを待っていてほしい、と。
彼は本気だったと思う。
彼は嘘をつかない人だったから。
でも、あたしはそれが無理なことだと分かっている。


最初から、全部分かっていた。
あたしでは彼の役には立てない。彼の夢を支えられない。
自分と、自分の家族の生活を守ることで精いっぱいのあたしには。
子供の頃からの自分の夢を叶えることで精いっぱいのあたしには。
才能に溢れた彼には、これから多くの出会いがあるだろうし、その可能性は無限に広がっている。あたしのように矮小な存在に囚われることなく、ただただ前に向かって進めばいいのだ。


彼は自由なのだから。


あたしに繋がる糸を大事にして、見失うものがあってほしくない。
彼にとっての最善の選択をして、いつか自分の夢を叶えてほしい。


最後まで、あなたを知らないままでいられたらよかったのに。
あたしはまた涙を零す。
だけどこうなってしまった以上、たとえひと時でも感じることができたこの幸福感を、永遠のものにしよう。あたしはそう決めた。
花沢類を、愛している。悲しいほど、愛している。
彼の今後の成功を祈っている。心から、祈っている。

だから彼がその手を離さないなら、あたしがこの手から離すしかない、と。


関連記事
スポンサーサイト



0 Comments

Post a comment