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樹海の糸 ~5~

Category『樹海の糸』
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花沢類は英徳の卒業式を待たずに渡仏するという。あの夜から数日、彼は渡仏の準備で忙しいらしく、あたし達には会う時間がなかった。
あたしは、次に会うとき、二人の関係に終止符を打つことを心に決めていた。
渡仏する前日に「会いたい」と連絡が入り、あたしは二つ返事でそれに応えた。
それからは一人、シミュレーションを重ねた。

言わなければいけないことがたくさんある。
彼を深く傷つけるための、たくさんの言葉を選び抜く。
反論されたら抗弁しなければいけない。
あたしは弁護士を目指す身だ。…論じ合いで負けることはしたくない。
そして、絶対に涙を見せることなく完遂しなければ。
そうでなければ、…すべてが茶番になってしまう。


「…いま何て言ったの?」
聞こえなかった筈はないのに、花沢類はあたしの口から別れの言葉を聞くと、即座に聞き返してきた。
「だから…、これまでありがとう、今日で会うのは最後にしようって言ったの」
彼の眉根がぎゅっと寄る。強い猜疑の目。
「なんで…? 理由が分からないんだけど」
そう言われたから、あたしは別れたい理由を述べた。

最初から、付き合うのは花沢類が卒業するまでと決めていたこと。
彼との将来を意識したことはないこと。

「所詮は高校生の恋じゃない。人は変わるよ。…何年も帰国を待ったり、将来を懸けたりなんてできない」
彼の険しい目があたしを射抜く。
「…俺の目を見て話してよ」
彼があたしの顔に触れようとしたので、あたしはやんわりとその手を遮った。
「そんな怖い顔しないで。…ね?」
あたしは曖昧に笑う。引き攣った笑いでなければいいと思いながら。

「…正直に言うと、あたしやっぱりあの当時、赤札が怖かったの。あんたがあたしの庇護者になってくれるなら、こんないい話はないって思った。…だから、利用させてもらっただけなの」
はっとしたように、花沢類の瞳が大きく見開かれた。
「あんたと付き合うことになって、道明寺から赤札を撤回されて助かったの。…虐め、本当につらかったし」
「…じゃあ、こないだの夜のことは?」
それが何を意味しているのか、分からないあたしじゃない。
―愚かだったあたしの、最大の過ち。

「あぁ、…うん。お酒入ってたし、お互いちょっと行き過ぎちゃったよね」
「…牧野は飲んでない」
「ううん、ちょっと飲んでた。…あたし、お酒弱いみたいね。すぐふわふわして、雰囲気に流されちゃった。…そういう事をするのも興味あったし」
花沢類がきゅっと唇を噛みしめたのが分かった。
…追い込むのは今だと思った。

「あたしさ、…あんたにうちの家族と会わせなかったよね? それに、あんたのうちの人と会うのも避けてた。あたしは最初からそのつもりだったから、深入りさせたくなかったし、逆にしたくもなかったの。…分かってくれないかな」
あたしは一つを言い終える度に、ぎゅっと奥歯を喰い締める。
涙を堪えるために。
そして一刻も早く、この苦しいやりとりを終えてしまいたかった。
「でも、あんたがバイオリニストになるのを応援してたのは嘘じゃないよ。フランスでも頑張って。……あたしのことは、忘れてくれていいからさ」
最後に、言葉を選びながらそう言い終えると、あたしは花沢類に背を向けた。

空いた左手を後ろからぎゅっと掴まれる。
彼の手はいつになく汗ばんでいて、強い困惑と焦燥とをあたしに如実に伝えた。
「俺、明日、午後2時の便で発つんだ。しばらく日本には戻れない。…待ってるから、空港に来て」
「行かないよ」
「待ってるから」
強く握られた左手が痛い。
…いや、違う。
痛いのは心だ。心が、悲鳴を上げている。

「…離して」
あたしは気力を奮い立たせて振り返り、咎めるように彼の瞳を見上げた。
花沢類はそっと手を離す。
彼の瞳にこんなに悲しそうな色を浮かばせているのは自分なのだと思うと、心が軋んで壊れてしまいそうだった。
「あんたが悪いんじゃないよ。あたしが歪んでるだけ。…バイバイ、花沢類」



通告していた通り、約束の時間に空港には行かなかった。
翌日は朝早くから、あたしは家族と引越しの作業をしていた。
花沢類が卒業の日を待たなかったように、あたしも修了の日を待たない。
2学年下の進はもう中学校の卒業式を終えていたし、あたしの出席日数も足りていたから、いち早く仙台へ引っ越すことにしたのだ。
東京にはもう何の未練もなかった。…もちろん英徳にも。唯一、あたしを見送りに来てくれた親友の優紀と、こうして気軽に会えなくなることがつらいだけだ。
午後2時を回る頃にはもう仙台に向かう高速バスの中にいて、バスは茨城県内を走っていた。


―ごめんね。花沢類。
隣に座っていた進がうたた寝を始めると、あたしは後方に流れる車窓の景色を眺めながら、笑顔の仮面を剥がしてひっそりと涙を零す。
―最後にひどい言葉で傷つけてごめんなさい。
―あたしのことは許さないで。…ううん。ただ忘れてくれれば嬉しい。


「…つくし? 気分でも悪いの?」
後部席のママがそっと声をかけてくれる。あたしはスンと鼻を鳴らして答えた。
「優紀との別れが悲しくて…」
「…あぁ、あんた達は小さい頃からずっと一緒だったからねぇ…」
うん、と頷くと、ママにそっと頭を撫でられた。
こんなことになってごめんね、という、か細い声も併せて聞いた。


あたしはまた決意を新たにする。
―もう泣かない。もう思い出さない。だから今だけは…。
花沢類の笑った顔。ちょっと拗ねた顔。…初めて見た男の顔。
彼の纏うフレグランス。優しいキス。…甘い体温。
好きで、大好きで、誰よりも大切な人。
あたしは、彼とのすべてを思い出すと、心の宝箱に仕舞って厳重に鍵をした。

あたしは、自分の目標のために、ただ生きようと誓った。


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