FC2ブログ

樹海の糸 ~6~

Category『樹海の糸』
 0

仙台に移り住んでから1年後の春、あたしは第一志望である国立大学の法学部に進学した。

あたしが初めて人に膝を折ったのは静さんに対してで、それは花沢類のためにだった。彼のためにフランスに戻らないでほしい、と彼女に懇願した。
自分の信念に生きる静さんにとっては、本当に迷惑な行為だっただろうと思う。結局、それは無駄に終わってしまったけれど、あたしはいまもそのことを後悔していない。

次に膝を折ったのは、自分と進のためにだった。
両親に英徳を辞めることを納得してもらい、あたし達二人が自由に進路を選べるようにと懇願した。玉の輿などという夢物語を信じることはやめ、苦しくても現実を直視し、生計を立て直してほしいと。
泣きながら畳に額を擦りつけ、土下座をするあたしの姿に、両親はひどくショックを受けた様子だった。でも、その甲斐あって、パパもママも心を入れ替えてくれた。
いまではそれぞれに仕事を持ち、収入は少ないながらも真面目に働いてくれている。

三度目は、家族のためにだった。
あたしが英徳をやめてからも、一家の生活は相変わらず苦しいままだった。
地元に戻っても、パパの仕事がなかなか決まらなかったからだ。
あたしは、父方の祖父に土下座し、絶縁を言い渡した父を許し、一時的に生活費の援助をしてもらえるようにと頼みこんだ。初め、祖父には会うことすらしてもらえなかった。それでも、あたしは諦めずに何度も足を運んだ。最終的に、祖父はあたしの夢にかける熱意を汲んでくれた。
…そうして今がある。


あたしは、司法試験の現役合格【※下記、注釈あり】を目指していた。
だから、とにかく時間があれば勉強をした。早いうちからゼミにも出入りして教授の教えを請い、法学の知識や教養を身に付けた。
勉強だけに専念できる環境はありがたかった。毎日が本当に充実していた。
大学では奨学金を受け、週1~2回でアルバイトもした。

自分磨きには一切無縁のあたしだったけれど、思わぬ相手から告白されることも時にはあった。その度に、封じたはずの彼との思い出が、戒めを食い破ろうと胸の内で暴れた。
あたしは……苦しかった。


必死の努力が結実し、大学4年の年の暮れ、あたしは難関を突破し、司法試験に合格した。当時、合格率は3%未満と言われていたから、それがどれほど希有なことだったかは言うまでもない。
翌年4月、あたしは司法修習生になり、埼玉にある司法研修所で3ヶ月の研修を受けた後、愛知県に配属され実務研修を積んだ。その後、再び司法研修所に戻り、試験に合格して法曹となり、ようやく念願の弁護士になった。
あたしが24歳になる年のことだった。


同じく、その年度末に大学を卒業した進は、もともとの希望だったシステムエンジニアになった。進は就職に伴って東京に戻ってしまったので、あたしは両親の希望もあって、仙台市内にある法律事務所に就職することに決めた。
あたしは、組織の一員として働く大手の事務所よりも、相談者にそっと寄り添えるような小規模の事務所の方が性に合っていたので、いくつかの個人事務所を訪問させてもらった後、ある事務所に採用してもらえるよう積極的に働きかけた。

面接のとき、あたしが子供の頃に読んだある弁護士の自叙伝の話をすると、その事務所の所長である海藤先生は大いに共感してくれた。
その本は私も読んだことがある、実際に著書の先生にお会いしたこともある、と。
弁護士の仕事をする上で何を大事にするか、そのフィーリングが合うことはとても大事だと先生は仰った。そうして、あたしは海藤法律事務所の一員になった。



「これから榊さんの接見に行ってきます。…その後は仙石堂さんに寄って戻ってきます」
「は~い。…あらっ。牧野先生、ちょっとこっちに」
受付事務員の宮川さんが手招きするので、逸る足をとどめて彼女の近くまで戻ると、伸びてきた両手に襟元をピシリと正された。そのままショートボブの髪の先さえ手櫛で整えられて、あたしは赤面する。
「身だしなみも大事ですよ。女の子なんだから、もうちょっとどうにかなりません?」
「はは…。申し訳ありません」
「…女の子というには、薹が立ち過ぎているがな」
余計な一言は、同僚であり、先輩弁護士の澤田先生からだ。
あたしは顔を顰めて、彼に無言の抗議をする。

事務所に入所して2年目を迎えていたあたしは、あと3ヶ月もすれば26歳になる。
澤田先生の言うように、若さのピークは過ぎてしまったように自分でも感じていた。
勉強と仕事に明け暮れた20代前半。…それでも十分に満たされていた。
「あっと、時間…。行ってきます!」
「お気をつけて!」
お母さんのような宮川さんに優しく見送られて、あたしはバタバタと走りながら事務所を飛び出した。
―あっ、せっかく髪を整えてもらったのに!
そんな姿を事務所の外から見つめる影があることには気付かず、あたしは予約しておいたタクシーに飛び乗ると目的地へと向かった。


拘置所での接見を終え、顧客である仙石堂社を訪問し、ほぼ予定通りの時刻にあたしは事務所に戻った。事務所の扉を開けた途端、所内の空気がどこかおかしいことにすぐ気付いた。
「牧野先生! 待ってたのよ」
宮川さんの顔がこれまでにないほど上気している。
あたしに集約する全所員の目線…。中でもとくに澤田先生の目線が痛い。
あたしは困惑する。
「牧野先生、こちらへ」
海藤先生が、所長室ではなく応接室の方から姿を見せて、あたしを呼ぶ。
「お客様がお待ちかねですよ」

―お客様? 依頼人?
あたしは慌てて身だしなみを整え、先生に導かれて応接室に入る。
その途端に懐かしいフレグランスが鼻腔を掠め、あたしは思わず足を止めた。
客人は男性のようで、あたしに背を向けて応接用ソファに腰掛けている。


―このシルエット、まさか…。


「ひさしぶり。…牧野」
すらりと立ち上がり、あたしを振り返ったその姿に、あたしの思考回路は完全にストップした。



【※注釈】 
このお話での司法試験は、現在の法科大学院(ロースクール)制度が創設される2004年以前の旧司法試験を指します。
関連記事
スポンサーサイト



0 Comments

Post a comment