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樹海の糸 ~7~

Category『樹海の糸』
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フランスの音楽大学に入学するために渡仏する前日、唐突に、牧野が俺に別れを切り出した。俺との将来は考えてはいない。赤札のために俺を利用していただけだ。だが、それも今日で終わりにしたい、と。
彼女の漆黒の瞳はいつもの輝きを失い、冷たく凝っていた。
それらの言葉を俄かには信じられなかった。

ほんの数日前、すべてを許しあって、互いの気持ちを確かめたばかりなのに。
拙いながらも、彼女は内包する熱情を俺に教えてくれたのに。

だけど牧野が言ったように、彼女が俺との間に何らかの線引きをしていることは薄々察していた。互いの家人との接触を、彼女は一貫して拒否していた。
絆を深められそうでできないこの関係性に、俺は焦れったさを感じていた。俺を見つめる牧野の目線には確かに俺への恋情を感じるのに、何が彼女をそうさせているんだろう、とずっと思っていた。
話を聞けば聞くほど、彼女が別れありきで俺と付き合っていたことは分かった。


プロのバイオリニストになりたいと言ったとき、牧野はその夢に向かう俺の背を力強く押してくれた。静を追うようにと、俺の背を押してくれたときのように。
輝くような笑顔を見せ、彼女が自分の気持ちにすぐ共振してくれたことに、ひどい高揚感を覚えた。運命を共にするなら彼女しかいない、と強く思った。
もちろん弁護士になりたいと言った牧野のことも、俺はずっと支えていくつもりだった。それがどれほど険しく、困難な道のりなのかを俺は正しく理解していたから。
たとえ時間と距離が俺達を遠く隔てたとしても、手を取りあって乗り越えていきたい。本気でそう思っていたのに。


出立の時になっても、牧野は俺の前に姿を現さなかった。
彼女からの明白な別離の意志。…予想はしていても失意は隠せない。
親友達は、俺が一方的に別れを告げられたことを知ると一様に驚き、そして訝しんだ。祝賀会の夜に牧野が見せていた笑顔には、混じり気のない愛情が満ちていたと皆は言う。牧野のことを調べてもらうように彼らに頼んで、俺は出国した。

後継問題を回避するにあたり、父とは様々な誓約を交わしていたから、出立を遅らせることはできなかった。父は俺が音楽の道に進むことを許し、生活上での最低限の援助を約束してくれた。
だが、俺の決意が半端であると断じれば、即座に援助を打ち切り、従来のレールに戻らせるとも通告していた。予定外の行動は取れなかった。


数日後、親友達が持ち込んできた情報に、俺はひどく心を痛めた。
牧野は英徳を辞めていた。
父親の会社は3ヶ月も前に倒産し、一家は路頭に迷っていた。
父の縁故を頼り、彼らは東京を離れたという。
「いまは仙台市内に住んでいるようだ。どうする? 追いかけてやろうか?」
気遣わしげに言ったあきらの申し出を、俺は断った。
たぶん牧野の決意は変わらない。彼女は俺を頼らない。
確信的にそう思えたから。


俺は考えた。あのとき、彼女が言った言葉の意味を。
取って付けたような理由は排除して、牧野が真に俺に望んだことは何だったのか。
『でもバイオリニストになるのを応援してたのは嘘じゃないよ』
この一言がとても重要である気がした。
確かにプロのバイオリニストになることは、彼女の目指す弁護士と同じように難しい挑戦であったと思う。どんなに演奏の技術があったとしても、結局は観衆の心に響くものがなければいけない。
一握りしかいない、この世界での成功者。
俺がその中に入っていけるのかは、これからの4年間に懸かっている。


―牧野。


どうして独りで何もかも抱え込んでしまったの?
だけど彼女の性格を考えれば、俺のためにあえてそうしてくれたのだとしか思えなかった。
俺は、あの夜にあんたが与えてくれた俺への熱情を信じているよ。
そして、いまでも、あんたとの永遠を願っている。
あの幸せだった一夜だけを切り取って、永遠にするつもりなんかない。
だから、そのために、いまはこの手を離してあげるね…。



フランスでの学校生活は、想像していたよりも遥かにつらく苦しいものだった。
特に最初の1年は。
俺が入学した音楽学校には、当然ながら世界中から技量のある学生が集まっていて、俺程度のレベルなど珍しくもなかった。彼らに負けたくなくて練習に没頭するあまり、左手指の腱鞘炎を何度も発症した。
いつでも、どんなときでも、俺の心の中には牧野がいた。
だけど彼女を恋しく想えば想うほど、…なぜか俺は彼女への憎しみを併せて抱くようになった。

この想いの行く先には、本当に未来などないのかもしれない。
それなのに、彼女は俺の心を侵食していく。どこまでも、どこまでも深く。
どうして、俺を信じて受け入れてくれなかったのか。
どうして、彼女の苦悩を、事情を打ち明けてくれなかったのか。
…俺と共に生きてはくれないのか。

愛憎は表裏一体だ。
想いが深まれば深まるほど、そのことを身に染みて実感した。
講師から、『報われない恋でもしているのか』と指摘されたときはドキッとした。『曲を正しく解釈するためにはその想いは不要だ。だから君の弾く曲は単調なんだ』とも。
俺は、彼女との思い出を心の奥底に封じ込めることにした。
自分の本分を見失わないために。
そして、これ以上彼女を愛し、…憎まずにいられるように。



最終学年の年、3度目の挑戦で名のある国際コンクールに優勝したことで、俺の未来は大きく変わった。ある著名な指揮者から、卒業後は彼の主宰する交響楽団で一緒にやらないかと誘われたときは驚いた。願ってもない好機に、俺は一も二もなくその申し出を受け入れた。
卒業してからの4年間、楽団のすべての公演に帯同し、ただ一心に経験を積み重ね続けた。最終的に楽団のバイオリンのソリストに指名され、大役を務めあげた。

高校卒業の春に渡仏してから、俺は一度も日本へは帰らなかった。
旧知の親友達は折に触れ、俺の住むフランスの邸宅を訪ねたり、欧州圏での公演を見に来てくれたりしていた。親友達はそれぞれに課せられた役目を全うし、後継者として活躍の場を広げている様子だった。

あきらからは、あの後、一度だけ牧野に関する報告を受けた。
難関である司法試験を現役合格したようだと聞いたときは、自分のことのように嬉しかった。あの日の言葉通りに、彼女も夢を追い続けているのだと分かって。
逢いに行きたい。何度も、何度もそう思った。
だが夢を追ううちに時は流れ、もう何もかも手遅れなのかもしれないと思い始めていた俺は、帰国することに二の足を踏んだ。


花沢物産の専務から副社長へと昇進した従兄から、専属契約を結ばないかと連絡があったとき、俺は26歳になっていた。ソリストとして独り立ちできるまでに、自分を育て上げてくれた楽団に感謝を告げて退団し、俺はその秋、帰国することを決めた。


あの春に牧野と別れてから、すでに8年が過ぎていた。
駆け抜けてきた時間は、振り返る余裕もないほどにあっという間だった。それだけの時間を経ても、自分の中に眠る彼女への想いがまだ色褪せていないことに俺は驚く。
帰国したら、真っ先に牧野に会いに行こう。俺はそう決めていた。
彼女がもう俺のことなど忘れ、他の誰かと共に生きているのだとしても、一目だけでいいから会いたかった。

そして、彼女に言いたかった。
あの日牧野が望んでくれたように、自分はプロのバイオリニストになったのだ、と。



牧野は仙台市内の個人法律事務所に就職していた。
弁護士になった彼女の行方を追うことは、さほど難しいことではなかった。
帰国した翌日、仙台に向かった。
初めて訪れた杜の都は、その名の通り緑が美しい街並みで、彼女にもうすぐ会えるのだと思うと、いやが上にも胸は高鳴った。

ここが海藤法律事務所だと教えられてタクシーを下車してすぐ、前方に事務所を飛び出してくる影を捉えた。一瞬のシルエットでも、俺にはそれが彼女だと分かった。
―牧野!
快活そうなショートボブと、すらりと細いパンツスーツ姿が目に焼きつく。
牧野は周囲に注意を払うことなく、待機していたタクシーに乗車すると、あっという間に走り去ってしまった。

時刻は午後2時。入れ違いになってしまった。
彼女が外出から戻ってくるのは何時だろう。
俺は一旦宿泊先のホテルにチェックインし、夕刻再訪することにした。
午後6時前になって直接事務所を訪ねたが、牧野はまだ訪問先から戻ってきていなかった。出直す意向を伝えた俺に、応対してくれた女性事務員が、じきに戻るはずなので応接室で待つようにと取り計らってくれた。

しばらくすると、所長であるという海藤氏が姿を見せ、所内での牧野の様子を少しだけ話してくれた。ほどなく玄関が騒がしくなり、「牧野先生」という言葉が聞こえ、海藤氏は立ち上がって部屋を出ていった。

俺は緊張のあまり体が動かなくなった。
オーケストラの初演のときでさえ、こんなに緊張はしなかったと思う。
「お客様がお待ちかねですよ」との言葉にソファを立ち上がって振り返ると、目を見開き驚愕した様子の牧野が入り口で立ち竦んでいた。
先ほど見かけたタクシーに乗り込んだ姿と同じで、間違いなくそれは彼女だった。
「ひさしぶり。…牧野」

―ずっと、ずっと逢いたかったよ。


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