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Category第3章 縒りあうもの
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「…ん…」
頬を撫でる温かな感触にゆっくりと意識が浮上してきて、あたしが薄く目を開けると、寝顔を覗き込んでいる類の瞳に出会った。規則正しい生活をしているせいか、類も朝が早い。あたしが冬季休暇に入ってからは、そんなふうにして彼に起こされることが多かった。
「…おはよう、類」
あたしは微笑む。
彼は唇に触れるだけのキスを落としてから、あたしをぎゅっと抱き寄せた。
「23歳、おめでと」
「ありがとう」
その後も鼻の上に、頬に、と次々に彼が口づけてくるので、あたしはくすぐったさに身を捩った。お返しとばかりに、あたしも彼にキスを送る。仔犬がじゃれ合うようにして互いに触れて、あたし達はなかなかベッドから抜け出すことができなかった。


着替えてダイニングルームに降りていくと、そこには食事を終えた真悠子さんの姿があった。
「おはようございます。すみません。ゆっくりしてしまって…」
「いいのよ。二人ともおはよう。それから…、つくしさん、お誕生日おめでとう!」
彼女の声に続いて、その場にいた康江さん達数人も声を揃えて祝辞を述べてくれた。
「…ありがとうございます。今日で23歳になりました」
朝早くから、こんなにたくさんの人に祝辞をいただくことなど今までにはない経験で、あたしはつい照れ笑いになる。類を見上げると、彼の目元も優しく和んだ。
「夜は一緒にお祝いしましょう。…それと、類。診察の結果はすぐに知らせてね」
「…分かりました」
真悠子さんはあたし達に席に着くように促すと、出社時間が迫っているのか、康江さんに後を託して部屋を出ていった。


今日は、美作総合病院脳外科の診察の日でもあった。
類とあたしは一緒に病院に向かう。
彼の病状の経過については、あたしもちゃんと把握しておきたかったからだ。
予約時間に病院に行くと、診察前にMRI検査を実施することになっていたので、類は病衣に着替えて検査室に入っていってしまう。検査が終わるのを待つ間、あたしはぼんやりと検査室の入り口を眺めて彼を待った。
初めてこの病院を訪れた日は、まだ梅雨の最中だったことを思い出す。
あれから、本当にいろいろな事があった…。振り返れば、まだ心がひりついて痛むようなことも多いけれど、あの時よりはずっと前進できている自分達を思う。


検査結果が出て、名を呼ばれると、あたし達は連れ立って診察室に入った。
類の担当の脳外科医は、転院後からずっと変わっていない。その医師は類が相手だからといって、特別視するでも、愛想よく接するでもない人だったので、むしろあたし達にとっては心安い相手だった。
「MRI画像を見る限り、硬膜下血腫の再発の兆候はありません。ですが、今後もしばらくは再発の可能性を念頭に置いておかれるとよいでしょう。予兆のような症状が見られたら早めに再診してください」
「仕事に復帰することは可能でしょうか」
「以前お伺いした内容ですと、復帰されて問題ないと思いますが、しばらく遠方の出張などは避けられた方が賢明でしょう。特に飛行機での移動は、気圧変化が体の負担になる場合があります」


その後も双方の間でいくつか質問と回答のやり取りをし、類は最後にこう質問した。
「事故から半年が経ちましたが、記憶はまだ戻りません。…今後、戻る可能性はあるでしょうか」
あたしは類の横顔をじっと見つめた。
医師はすぐには回答しなかった。ややあって口を開くが、彼は明言を避けた。
「可能性だけの話をするのであれば、戻る可能性はあると思います」
「……もし記憶が戻ることがあれば、今の自分はどうなってしまうでしょうか。古い記憶が今の記憶に追加される形で戻ってくるのか、…古い記憶が今の記憶に置き変わる形で戻ってくるのか」

類の口調は淡々としていたけれど、あたしは彼の不安を痛烈に感じ取っていた。
類は、恐れているんだ。
もしかしたら、自分の今の記憶が消えてしまうかもしれないことを。
道明寺の記憶が戻ったときは前者だった。
だからと言って類が同じような経過を辿るとは限らない。


「…記憶喪失自体が、臨床上でも稀な病態であるとされています。その喪失の程度も回復の程度も多種多様であり、様々な患者と向き合ってきた私にも、はっきりとした回答を差し上げることはできません」
医師は告げる。
結局、すべては可能性の一つに過ぎないのだと。
「今の花沢さんにアドバイスできることがあるとすれば、詳細に記録を残すことだと思います。もし今後、再び記憶の混同が生じることがあっても、その記録を頼りに日常生活に馴染んでいくことができますから…」


病院からの帰り道、半年前の事故の現場を見てみたい、と類が急に言い出したので、あたしや迎えに来た運転手の今井さんは対応に困ってしまった。
「…つくしは、現場を見に行ったことがある?」
「うぅん。ない…」
場所だけなら知っていた。事故の起きた交差点には界隈では有名な店が立ち並んでいたし、行けばすぐに分かるだろうと思う。
だけど、あたしは行きたくなかった。自分達の住む地域からは遠く、そうした意図がなければ通ることはない場所でもあったから…。
「付き合ってくれる?」
「……類がそうしたいのなら」
彼の意志は固く、結局あたし達はそこに向かうことになった。



30分後、あたしと類は、彼が事故に遭った交差点の近くに並んで立っていた。
あのような大事故があったという形跡はすでになく、信号が変わるたびに多くの車が忙しく交差点を横切っていく。何の変哲もない、ビル街のひと風景…。
類は黙って交差点を眺めていた。その横顔からはどんな感情も窺えない。
5分、10分と時間が経過しても、類はその場をじっと動かず、彼と手を繋いだあたしも身動みじろぎすらできずにそこに立ち尽くしていた。
だけど…。

「…クシュンッ」
コートを着込んでもいても、真冬の寒さは足元から這い上ってくる。あたしが小さくくしゃみをすると、類はハッと我に返ったようになり、あたしを気遣った。
「…ごめん。寒いんだろ」
「平気、平気。あたし、寒さには強いもん。類の気が済むまで、いつまででも付き合うから…」
そう言って笑うあたしの肩を引き寄せて、類は大きくため息を吐いた。
「…記憶の記録、か」
「え?」
「さっき先生が言ったこと。記録を残せって。…やってみようと思う」

類は意思表明をする。
「…目覚めてからの記憶は自分で纏める。事故以前の記憶は、つくしと確認しながら形にして残していきたい。…面倒かもしれないけど、いい?」
「…不安なの? これからのこと」
彼の質問に答えるより先に、あたしからも質問をしてしまう。
「…今の自分が、もしかしたら、消えてしまうかもしれないことが怖い。……また、つくしを悲しませてしまうかもしれないことが怖い」

「大丈夫だよ」
あたしも類の腰に腕を回して、彼にぴったりと寄り添う。
「もし類が何かを忘れてしまったら、その都度、あたしが教えていく。…あたしは忘れないから」
彼との間にあったことは、すべて。
…いいことも、悪いことも、何もかも。
「何でも話して。あたしも話すから。…怖がらないでいいよ」
類はきゅっと唇を引き結んだ後、ごく小さな声で礼を述べた。


その夜、花沢邸ではあたしの誕生日会が催された。
暁さんと真悠子さんからはキャメル色のロングコートをプレゼントされた。
暁さんは年末には帰国するという。彼が帰国するのは実に半年ぶりのことだった。
類からはネックレスとイヤリングが贈られた。
婚約指輪と同様にシンプルなデザインで、美しいカッティングの一粒ダイヤが白い光を放ちながら輝いている。類自ら、それらをあたしに着けてくれ、よく似合っていると褒めそやされると、なんだか無性に気恥ずかしかった。
その日の晩餐は本当に楽しいものだった。類は、医師の前で吐露した不安はもう見せず、終始穏やかな表情であたしと真悠子さん達との会話を見守っていた。



寝支度を整えて、いつものようにベッドの彼の隣にもぐり込む。
類はあたしを抱きしめ、おやすみのキスをした。
術後の類の体調に配慮して、あたし達の間にはずっとそうした関係はなかったから、当然のように触れるだけのものだと思っていた。
だけど、今夜はそうじゃなかった。

彼の舌が滑り込んできてあたしの舌を探り、すぐに深いキスへと変わる。彼の首に腕を回してそれに応えていると、体の奥に焔が灯ってあたしを芯から熱くさせる。
―類が欲しい。
そう強く思う。
唇を離すと、類は言った。
「…このまま、抱いていい?」
その言葉を嬉しく思う反面、彼の体のことが心配でもあった。
「…うん。…でも、体調は? 無理してない?」
そう問えば類は小さく頷き、再びあたしの唇を優しく塞いだ。





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いつも拍手をありがとうございます。
明日は少し時を遡ったところから、類視点でお送りします。
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