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3-26

Category第3章 縒りあうもの
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術後に目覚めてから、俺の体調の回復は芳しいものではなかった。
脳という極めて繊細な部分を手術したのだから、無理もないことだと思う。
軽い頭痛やめまいは、後々になってもずっと、尾を引くようにして俺を苛み続けた。
つらいとき、苦しいときはいつでも彼女が傍にいてくれた。
俺の手を握り、気持ちに寄り添い、ただ一心に俺を支え続けてくれた。

過去の記憶は、結局、取り戻せないままだ。
記憶が戻ることで、今の自分が失われることになってしまったとしても、彼女のために俺はそうしてあげたいとさえ思うようになっていた。
…だけど、どんなに望んでもそれは叶わなかった。
なぜ、と思う。…それに答える声はない。

つくしはそんな俺のすべてを受け入れてくれた。彼女を苦しませた俺の言動を許し、俺の幼さを許し、共に生きることを約束してくれた。
だからこそ俺は、過去の自分以上に彼女を慈しみ、愛していくことを改めて誓う。


彼女が俺の元に戻ってきてくれたことを喜んだのは、両親だけではなかった。
執事の磐田をはじめ、邸内で働く者は皆、つくしに好感を抱いている。
つくしは、一人一人を正しくその名で呼ぶ。その労を優しく労い、感謝を告げる。
相手への敬意が伝わるからなのだろう。
彼女が花沢邸に居を移してきた日、邸内は浮足立つような雰囲気に包まれ、つくしは彼らに温かく迎え入れられた。康江などは、使用人の長としての立場にありながら、喜びのあまり泣き出してしまったくらいだった。


彼女の部屋は俺の隣に設えられたけれど、つくしがその部屋で過ごすことは少なかった。俺の部屋にはソファとローテーブルが置かれていた。ベッドに横になったままの俺の横で、彼女が学校の課題を仕上げたり、縫製作業をしたりするのを静かに見守った。
12月1日で校内における卒業制作は終了したが、次は都内にある多くの服飾専門学校が参加するコンペティションに出展をするらしい。各コースのクラス全員で取り組む卒業制作なのだと彼女は言っていた。
2月の発表会本番まで、再び忙しい日々が続くのだという。

療養のために自宅に引き籠っている俺とは違い、つくしにはつくしの日常生活がある。それでも彼女は、時間の許す限り、俺と一緒にいてくれた。
たとえそれが、会話のない沈黙だけの時間だったとしても、同じ空間を共有できるだけで俺は構わなかった。


夜、ベッドの中に彼女を迎え入れ、抱き合って眠るまでの甘く穏やかな時間が俺は好きだった。疲れているつくしは、小さな子供のように、俺の腕の中ですぐにまどろみ始めてしまう。
その柔らかな肌も、艶やかな黒髪も、華奢な体も…。
彼女を形作る何もかもが、愛おしくてたまらない。
彼女と生きる未来が、明日に続いていることがただ、ただ嬉しい。



つくしの誕生日であるその日、自分が事故に遭った場所に初めて訪れてみた。
そこは普遍的に存在する交差点の一つに過ぎず、そうだと言われなければ、特別な何かを感じるような場所でもなかった。事故の痕跡は消え失せ、日常を取り戻した風景は、通り過ぎる人々の記憶には一片すら残ることはないだろう。
だけど、俺はその風景を目に焼き付ける。
ここで、過去を失ったことを忘れないために。

記憶の記録を残そうと思ったのは、もちろん二人のためにだった。
自分の脳が、いつ、どんな形で記憶を混同させるか分からないという曖昧なこの状況は、決して楽観視していていいものではないと思っている。
もう二度と、彼女を忘れたくない。
信頼関係を、愛情を、思い出を、その何もかもを憶えていたい。
切にそう願うからこそ、俺は彼女を失わないためのツールとして記録を残す。



今夜も、いつものように触れるだけのキスをするつもりでいた。
だけど体の回復と共に、彼女を抱きたいという欲望は日を追うごとに強まっていて、情欲に負けてひとたびキスを深めてしまえば、もう自分を律することができなかった。医師の診察を受けて、自分の病状を客観的に把握できたことも大きかったかもしれない。

つくしの熱い口腔内に侵入して舌を誘い出せば、彼女は俺の首に腕を回してそれに応えてくれる。自分本位にならないよう、彼女の反応を待ちながらゆっくりとキスを楽しむ。
―つくしが欲しい。
そう強く思う。
体の奥に焔が灯って、俺を芯から熱くさせる。
彼女からも、俺と同じ熱が感じられたように思った。
「…このまま、抱いていい?」
彼女の漆黒の瞳が潤む。その瞳の中に、俺と抱き合うことへの怯えや嫌悪がないことを慎重に探って、じっと彼女の答えを待つ。
「…うん。…でも、体調は? 本当に無理してない?」

…いつだって、彼女はそうだった。
自分ではなく、俺のことを思いやってくれる。

小さく頷いて、俺はその先を求めた。





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いつも拍手をありがとうございます。
3-25と対になっているお話でした。
明日は最後のパス付きです。定時にUPします。
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