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樹海の糸 ~8~

Category『樹海の糸』
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その衝撃からは、自分でも思いのほか早く立ち直れた。
弁護士たるもの常日頃より冷静であるように努めていたし、相手に感情を気取られないようにすることも必要だったから。
あたしは一瞬で笑顔の仮面を貼り付けると、花沢類ににこやかに応対した。
何年経っても変わらない、記憶のままに美しい容貌の青年に。

「ご無沙汰しています。花沢さん」
あたしが発した言葉に、花沢類が微笑を浮かべる。
「仙台に所用があったから寄らせてもらったんだ。…元気だった?」
「えぇ。…帰国なさっていたんですね」
「仕事の邪魔をしたら悪いとは思ったんだけど、ちょっと顔が見れたらと思って…」
もちろん、花沢類に勤務先を教えた覚えなどない。
あの春以来、互いに何の接触も図らなかったのだから。
彼が意図的にここにやってきたことは明白だった。

「…牧野先生、今日はもう上がったら?」
彼とのやりとりを黙って聞いていた海藤先生があたしに言う。
「久しぶりに再会したんだから、積もる話もあるだろう?」
「いえ…、あの…」
あたしが言い淀むと、海藤先生はポンポンッとあたしの右肩を叩いた。
―あたしの緊張をほぐすときによくする、先生の癖。
「世の中には定時という言葉があるだろう? そして今はその定時だよ」

花沢類は仙台駅近くのホテルに宿泊するという。
接待の関係で利用したことのある駅近くの料亭に電話で予約を入れると、あたし達は事務所から直接タクシーでそこに向かった。連れ立って事務所を出るときの皆の視線が背中に痛かった。
明日は質問攻めにされるだろう。特に宮川さんには。
そう思うと気が重かった。


―どうして、ここに来たの? 
タクシーの後部席に並んで座り、二人の間に沈黙が下りても、あたしは何も言い出せなかった。
―あの日、ひどい言葉であなたを傷つけたあたしなのに、どうしてそんなに優しい目を向けてくれるの…。
そっと彼を窺い見ると、あたしの目線に気付いた花沢類はニコッと小さく笑って返してくれる。
あの日までの彼とまるで変わらない、陽だまりのような温かさを感じると、あたしは居たたまれなくなり俯いた。強まっていく自責の念と、…彼への思慕。
封じていたはずの記憶の戒めはとうに解かれ、溢れ出した思い出達にあたしはひどく苦しめられた。結局、料亭に着くまでの間、彼とは一言も会話を交わさなかった。


あたしの意識はぐんぐんと過去を遡る。
仙台に移り住み、彼と彼の親友達と関わりを断ってしまうと、あたしには彼に関する情報を手にする手段がなくなった。
次に花沢類の名を目にしたのは、大学3年の秋だった。
伝統ある国際コンクールのバイオリン部門で彼が優勝したことを伝えるニュースは、入賞者としては数少ない日本人の快挙として、公共の電波で大々的に発表された。
類い稀なる実力、美しい容貌、そして彼のバックボーンにメディアは挙って飛び付いた。

卒業後は世界的にも有名な指揮者が主宰する交響楽団に入団するという報は、女性週刊誌の見出しで目にしたんだったと思う。世間的な注目もあり、ほどなく彼の恋愛に関する噂がたびたび紙面を賑わせるようになった。相手の女性は、彼の所属する楽団の団員であったり、フランスの大企業の令嬢であったりと様々だった。
花沢類に自分にとっての最良を選択してほしいと願いながら、彼が他の誰かにあの温かい笑顔を見せ、甘く愛を囁くのだと思うと、あたしは気が狂いそうなほど嫉妬していた。

彼との素敵な思い出を心の宝箱に入れて封印し、あの一瞬の幸せだけを永遠にしようとしたのは自分なのに。
彼は自由だと分かっているはずで、嫉妬する権利さえ自分にはなかったのに。
報道が過熱していくと、さすがに花沢物産の広報部も黙ってはいなかったようで、ほどなく騒ぎは緩慢に収束していった。

交響楽団における彼の活躍はインターネットを通じて知ることができた。
最終的に彼は、日本人で初めて、その楽団のバイオリンのソリストを務めるまでに実力を伸ばした。まだ幼かった自分達の目指したものは夢物語ではなかったのだと思い、彼の活躍を目にする度、あたしは人知れず涙を流した。
―どうか、彼の行く先がこれからも輝いていますように。
それは誰にも打ち明けることのできない、あたしだけの密やかな祈りだった。


その日本料亭は豆腐料理の専門店で、長く外国暮らしをしていた彼にとっては懐かしい味もあるだろうと思い、そこを選んだ。個室の和室に通され、メニューの中のお勧めのコースを頼み終えると、改めて部屋に二人きりになった。
「…ずいぶん無口になったんだね。牧野」
ややあって口を開いた花沢類は苦笑していて、あたしは再び身の内に感情を押しこめて笑顔を作った。
「久しくお会いしていませんでしたし、何を話していいか考えてしまって…」
「…いい別れ方でもなかったし?」
軽い口調でチクリと刺すような言い方をされたが、あたしは動じない振りをする。
「…その節は、大変申し訳なかったと思っております」

花沢類は片肘で頬杖をついた。美しいビー玉の瞳があたしの表情を見逃さないようにと、真っ直ぐにあたしを見つめている。

「敬語はやめにしない?」
あたしは、ゆるく首を振る。
そんなことはできない。
あたし達が親しみあい、距離を縮めていたのはあの頃だけだ。
「…どうして、花沢さんは仙台にいらっしゃったんですか?」
あくまでも他人行儀な態度を崩さないあたしに、ため息を一つついて彼は答えた。
「もちろん牧野に会うためだよ。…会って言いたかった。夢を叶えて戻ってきたんだって」
「ご活躍は報道で目にしています」
「牧野も叶えたんだね。自分の夢を」
あたしは頷く。
「はい。弁護士になりました。まだ駆け出しで、ほとんど社会貢献できていませんが…」

それでもあたしは手応えを感じている。
海藤先生のご指導の元、自分の目指すべき姿をここでは実現できるのだと。
コンコンとドアがノックされ、お膳に乗せられた料理が運ばれてきた。
そのとき、女性店員は類が誰であるかに気付いたらしい。顔を赤くし、上ずった声で料理の説明をすると、彼女はそそくさと部屋を出ていった。


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