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5.彼の日常

Category『Distance from you』 本編
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―土曜日まであと2日か。…待ち遠しいな。

花沢物産本社の上階にある執務室で、今後の予定を確認しながら、類はごくわずかに笑みを浮かべた。このまま予定通りに仕事が済めば、今週もひかわ動物病院への訪問が可能だ。次の訪問は事故の日から数えて5回目で、ちょうど1ヶ月になる。シロンの回復は順調だ。
丁寧に応対してくれながらも、類にはまるで心を許そうとしない女医の顔が思い出される。それでも類の方は、少なからず彼女に好感を抱いていた。
今の自分に“待ち遠しい”と思える何かが生じたことに、素直に驚きが隠せない。
そんな類の変化を、第一秘書の田村はいち早く察知した。


「最近、ずっとご機嫌でいらっしゃるんですね」
「……何のこと?」
「とぼけても無駄ですよ。週末が近づくと、いつも嬉しそうですよね」
「よく見てるね」
「長いお付き合いですから?」
お道化たように一礼をする田村に、類はにべもなく告げる。
「今後も機嫌よく仕事してほしいなら、土曜は予定を入れないように」
「……確約は致しかねますが、善処は致します」
田村のその返答に不満を抱きつつも、類は手元の書面にさっと承認のサインをした。土曜日の自由時間を確保するためには、作業効率を上げて仕事を片付けておく必要がある。
「来週の会議の資料は?」
「もうご覧いただけるんですか?」
「…余計な質問は要らない」
すぐプリントアウトしてきます、と微笑んで、田村は自分のデスクに戻った。



シロンを轢いてしまったあの瞬間、さすがの類にも強い焦燥があった。
ノーリードの犬の飛び出し事故であり、不可抗力に近い状況ではあった。だが、加害者となったこちらを責めることなく、真っ青な顔で自己の不手際を詫びる女医に、類はただ申し訳なかった。
幸いなことに、シロンのケガは命に関わるほどの重傷ではなかった。
治療費と慰謝料の意味を込めて小切手を置き、一時的に病院を去ったが、改めて謝罪に伺うと女医は小切手の受け取りを拒否した。自分の過失をなかったことにはできないと言って。
類にとっては、支払う金額が50万であろうと100万であろうと大差のないものであったが、女医の意志は頑なだった。最後には“補償はなしで”と言い出しかねない相手に、20万円以下には応じないと強引に押し切り、類は再訪を約束して病院を後にした。


翌週、約束通りシロンを見舞った類に、どういうわけか女医はあまりいい顔をしなかった。類としては、可能な限り愛想よく接したつもりであるし、今までそうした反応を返されたことがなかった。過分な補償はお断りだ、と言うように見舞いの品を固辞し、今後の関わりをも絶とうとする彼女の姿勢に、類は俄然、興味を持った。


無造作なヘアスタイル、化粧っ気のない顔、動きやすさだけを重視したような服装。
黒目がちの瞳は、類個人への興味を一切示さない。
これまで類の周囲にいた女性達とは、180度異なる彼女。
だが、処置にあたるときの凛とした横顔や、動物に向ける屈託のない笑顔はひどく魅力的で…。
彼女の実直な在り様を、類は非常に好ましく感じていたのだった。


居住空間であるという2階に通され、初めて3階のサンルームに入ったとき、類は居心地の良さを感じた。彼女の家族だという5匹の愛犬・愛猫はいずれも人懐っこく、部外者である類をすんなりとテリトリーに受け入れてくれた。
飼い主であるつくしだけが、唯一、類を歓迎していなかったけれども。

ペット達の名前を聞いて合点がいった。
カイ(χカイ)、シロン(εイプシロン)、ファイ(φファイ)、ラム(λラムダ)、ミュー(μミュー)。
彼らの名前は、いずれもギリシャ文字に因んでつけられている。


年長者である雑種犬のカイは、類が一人サンルームに残ると、のっそりと立ち上がって傍にやってきた。
カイは薄茶色の毛並みの中型犬で、日本犬の血が色濃く感じられる。スンスンと鼻を鳴らしながら類の手の匂いを嗅ぎ、きちんとお座りをして類を見上げた。
その瞳が白く濁っているのは老犬ならではだろう。
「…お前が、ここの主だね?」
膝をつき、カイの目を覗き込み、頭を両手で撫で回しながら類は問う。
カイは類の為すがままだ。
「気持ちのいい場所だよね。また来てもいい?」
返事をするようにワフッと吠えたカイに微笑み、類は彼の日常からはかけ離れたこの空間で、つかの間の休息を楽しんだのだった。


動物には、傷ついた心を癒し、精神面の回復を促す力があると言われている。
“アニマルセラピー”という概念も、近年、医療現場や介護現場に浸透しつつある。
類は、つくしの家族である愛犬・愛猫達に心癒される自分を自覚していた。

…彼自身、誰にも言えない心の傷を抱えて生きていた。





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今作のお話のスタイルが見えてきましたか?
…類には、頑張ってもらわないといけません(*'▽')
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