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樹海の糸 ~9~

Category『樹海の糸』
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牧野の選んでくれた店は豆腐専門店というだけあって、運ばれてきたお膳にはどの皿にも豆腐を使った料理が供されていた。長く欧州を転々とする生活を送っていた俺には、どれも懐かしい味ばかりだった。彼女が俺の好みを覚えていてくれて、そうした店を選んでくれたんだと思うと嬉しかった。

料理を食べながら、俺から先に語り出す。
これまでの8年間を。
音楽大学に入学してからの悩める日々、ライバル達への劣等感、自分の実力への懐疑など、ありのままを話した。
そして3度目の挑戦で手にした国際コンクールの優勝。
卒業後の交響楽団への入団。
フランスを拠点に様々な国に渡り、演奏を行ったこと。
やがて楽団のソリストに選ばれたこと。
この秋に退団して帰国し、今後は花沢物産の支援を受けながら音楽活動を行っていく予定であること…。

牧野は丁寧な所作で食事を進めながら、俺の話をほとんど相槌も打たずに黙って聞いていた。牧野が俺に素の感情を見せたのは、再会した時のあの一瞬だけだった。
驚愕に満ちた表情はすぐ笑顔に変わったが、それが彼女の仮面であることはすぐに見抜けた。あの別れの日も、彼女はいつもと違う顔を見せたことを思い出す。
「…牧野はどうだったの?」
俺が水を向けると、牧野はそっと箸を置き、居住まいを正してから口を開いた。彼女は、俺がそうしたように俺との過去には触れずに、ただ自分の抱えていた事情を淡々と話してくれた。

牧野の入学時から逼迫していた家の経済事情。自分と弟の進学に対する不安。
…そして父親の失職。
仙台に移住してからの苦しい生活、祖父との和解、そして念願の大学進学。
勉強に明け暮れた大学時代から、現在の弁護士事務所への就職まで。
牧野の説明はとても端的で分かりやすかったが、そのどこにも彼女の感情は織り込まれなかった。


「…結婚は?」
話し終えて沈黙した牧野に対して、口をついて出た質問がそれだった。
自分でも少し性急な質問だったと思う。
牧野はまた作られた笑顔を見せ、ゆるく首を振った。
「していません。いまも両親との三人暮らしです。…仕事に邁進している日々です」
再会してすぐ、俺は彼女の白い指に光る指輪がないかを探った。
…そして、見つからなかったことに安堵して。

牧野からも同じ質問を返されるかと思っていたのに、彼女はまるで興味のない素振りで話を打ち切った。
「あぁ、もうこんな時間ですね」
細い手首に巻いた腕時計に目線を落とし、彼女が呟く。
時刻は午後8時を回っていた。入店したのは6時半頃だったからそれなりの時間は経過していたが、俺にはまるでその感覚がなかった。
「すみません。明日の仕事があるので、私はそろそろ…」
牧野は軽く頭を下げ、帰る意志を告げる。
俺はまだ自分の想いのほとんどを打ち明けられていないことに焦る。
「もう少しだけ…だめかな?」
懇願するように牧野を見つめれば、ほんの僅かに彼女の漆黒の瞳が揺らいだような気がした。


会計をするときにはひと悶着があった。
二人分を支払おうとする俺に、彼女は頑として折半を主張し、譲らなかったのだ。
「奢っていただく理由がございませんので…」
固辞の姿勢を崩さない彼女に苦笑しつつ、結局は俺が押し切った。
「あんたの貴重な自由時間を俺に付き合わせたんだから、俺が支払うのが当然だろ?」
クレジットカードで手早く決済を済ませてしまうと、牧野は一歩下がったところで処理が済むのを待ち、やがて俺に一礼した。
「すみません。御馳走になりました」
牧野にまるで他人のように丁寧に接されると、その度に心に深く棘が刺さっていくようだった。
「花沢さんの宿泊されるホテルまでは歩いて10分ほどです。ご案内しますので、少し外を歩きませんか?」
彼女にまだ一緒にいてほしいと思うのに、そのための言葉が浮かばなかった俺はその申し出に頷いていた。


「明日は土曜日なのに仕事なの?」
街灯の明るい大通りを二人並んで歩きながら牧野に問えば、彼女は何でもないことのように頷く。
「ご依頼人の希望する日時に都合を合わせると、土日出勤もやむを得なくて…」
「ちゃんと休んでる?」
「はい。ご心配には及びません。体力には自信がありますし」
「…大変な仕事だね」
俺が言った言葉のどこが面白かったのか、牧野は小さく笑ったふうだった。
「…なに?」
「いえ。私は花沢さんの仕事の方が大変だろうにな、と思っていただけです」
ほんのりと笑んだその顔にぎゅっと心を掴まれる。
そんなことはない、と言いかけて俺は立ち止まった。
牧野もつられて立ち止まる。


―牧野。
言いようのないもどかしさが胸いっぱいに広がり、俺から言葉を奪う。
―こんな他愛のない話がしたくて、俺はここにきたわけじゃない。
だけど俺を見上げてくる牧野の表情はあくまでニュートラルで、俺に対する何の感情をも顕わにしない。
―本当に俺とのことは全部が過去になってしまったの? 
8年という時の重みを思い知る。だけどここで引き下がってしまうのなら、何のために今日までを生きてきたのかが分からなくなる。

「…牧野」
左手で牧野の右手を取ると、彼女は驚いたようにその手を引っ込めようとした。
その右腕を掴んで無理やり引き寄せ、自分の腕の中に彼女を閉じ込めた。
彼女は即座に抗い始める。
「やっ…は、花沢さんっ」
牧野の背に両腕を回してきつく抱きしめる。
彼女の体は柔らかく、折れそうなくらいに細かった。

―ずっと、こうしたかった。あんたの温もりを感じたかった。

「俺はいまでも牧野を愛してるよ。…8年間、ずっとあんたを想い続けてきた」


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