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10.ミチ子の記憶

Category『Distance from you』 本編
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「先生? いつも土曜日にデートしている人は、彼氏さんですか?」
診察に来る顔馴染みの飼い主に、最近よく投げかけられる質問だ。
彼と散歩する姿を見られているのだろう。
サンルームへの訪問を回避することによって生じた、新たな弊害だった。
「いえ、動物好きの知人です」
それに対するつくしの返答は淀みなくシンプルだ。
照れや動揺を微塵も見せることなくにっこりと返されると、相手は興味を削がれてそれ以上の質問をしなくなる。

「なぁんだ、違うの。…すっごいイケメンよね?」
「そうですねぇ。…さて、健康診断は問題なしです。今年は左足に注射するので、ミミちゃんのここを押さえてもらっていいですか?」
「はぁい。ミミ、我慢してね」
つくしは注射器のシリンジを指先で弾いて気泡を抜き、診察台に乗った猫の左足に狙いを定めて針を刺す。
ミミは9歳。予防接種にも慣れたものだ。
「いい子だねぇ。…はい! もう終わったよ」
つくしは大人しく注射を受けたミミの頭を撫でて褒めると、飼い主と二言三言交わして診察を終えた。


「すっかり有名ですね。“土曜日の彼”」
珍しく客足が途絶えて空き時間ができると、由紀乃が処置に使った道具を片付けながらつくしに言った。つくしはカルテを入力する手を止めない。
「…目立つものね、あの人」
「カッコいい外車が、いつも同じ時間にここに停まってるんですもん。ご近所でも噂されてますよ」
「…あぁ。そうですよね」
応える声が少し小さくなったことに気付き、由紀乃はつくしの顔を覗き込んだ。
「先生?」
彼女はそれには視線を振らずにカルテを入力し終え、おもむろに立ち上がった。
「週末の仕事のことで、ちょっと先方に電話してきますね」
「あっ…はい」
つくしは唐突に話を切り上げる。
そのまま背を向けた彼女からは、何の感情も放射されていなかった。


女医が奥の部屋に電話をかけに行ってしまうと、由紀乃はやや困惑したように、受付のミチ子に声をかけた。
「ねぇ、ミチ子さん」
「なぁに?」
ミチ子は、パソコンの画面で先々の予約確認をしていた。
「先生って、花沢さんのこと嫌いなのかしら」
「え?」
由紀乃の質問に、ミチ子は少し驚いたようにして振り向いた。
「花沢さんの話をすると、先生はすぐ話を切り上げたがるんですよ」
「あぁ…その件は触れられたくないのよ。気になるだろうけど、そっとしておいてあげて?」
「二人は、お付き合いしてるんじゃないんですよね?」
「えぇ」


由紀乃には、いまひとつ理解できなかった。
傍目には、類はつくしに好意を寄せているように見える。最初こそ嫌厭する様子を見せたつくしも、今では類の訪問を受け入れている様子だ。ともにパートナーはいない。そんな2人が定期的にこうして会い続けている。
これで付き合っていないというのだから、不思議な話だ、と。


「先生はそういうのが不得手な子だからね。…また何かあったら知らせてね」
ミチ子はやんわりと微笑み、それ以上の質問を拒む様子を見せた。
その横顔はどこか物憂げだ。
「分かりました」
そう答えて、由紀乃は診察室へと戻った。つくしはまだ電話中のようだった。

由紀乃は43歳。ひかわ動物病院に勤めるようになってから6年になるが、これまで一度もつくしの浮いた話を聞いたことがない。結婚願望がないと耳にしたことはある。ミチ子の表情から察するに、今後その話題は口にしない方がいいのだろう。
由紀乃にはそう感じられた。



ミチ子はひかわ動物病院の開院時からの古株事務員だ。
実に30年以上もここに勤続している。
つくしが生まれ、母の千恵子に連れられて遊びに来た時からずっと、彼女のことを知っている。つくしは素直で優しい子供だった。動物に対して愛情深く、声なき声を聴きとる能力に長けていた。高校卒業後からここに住み、大学に通いながら、祖父の技術を学び続けた。

つくしが19歳になってからすぐのことだった、とミチ子は記憶している。
彼女に男性の影が見え隠れし始めたのは。

本人ははっきりと口にしなかったが、平日の帰りが遅くなったり、土日に出かけたりすることが多くなった。交際相手がいるだろうことは皆、薄々感じ取っていたが、誰も面と向かって訊ねることはしなかった。ふとした瞬間に見せる表情はどんどん大人びていき、その頃の彼女の変化には目覚ましいものがあった。
だが、あるときを境に、彼女の笑顔に翳りが見え始め―。


彼女の恋が終わったことをミチ子が知ったのは、翌年の冬。
まだ元気だったカイを散歩させているつくしを、公園で見かけたときだった。
冬空の下、ベンチに腰かけ、彼女はひっそりと泣いていた。
自宅では泣く場所がなかったのだろう。
カイは心配そうにつくしの膝に伸びあがり、彼女を懸命に慰めようとしていた。丸くなったその背があまりに小さく痛々しいので、声をかけることは躊躇われ、ミチ子にはその姿を見守ることしかできなかった。やがてつくしがカイを抱きしめ、涙を拭いて立ち上がるのを見届けて、ミチ子も公園を後にした。
そのことは今まで誰にも話していない。

つくしは伸ばしていた髪をバッサリと切った。それまで以上に学業に専念するようになり、順調に進学して獣医師国家試験に合格した。
そうして、今のように、ただ使命に忠実で有能な女医が出来上がったのだ。


だが、ミチ子は待っていた。いつか、つくしの凍てついた心を解かし、そっと彼女に寄り添うことのできる男性が現れるのを。
早くから独身を宣言しているつくしだったが、彼女にも家庭の温かさや家族を得る喜びを知ってほしい、と切に願っていた。
―だって、あんなに優しくていい子なんだもの。
前院長夫妻にも彼女のことを頼まれていた。
これからも、つくしの力になってやってほしい、と。
ミチ子にとって、つくしは実の子供にも等しく、愛おしい存在だった。


でも、とミチ子は思う。
つくしの相手として彼は相応しいだろうか、と。
どこかで聞いたことのある名前だと思った。その答えはすぐに分かった。
“花沢類”は、世間的にも有名な大企業の御曹司だった。

―彼の気持ちは本物だろうか?
―ただ気紛れに彼女の心を乱し、傷つけるだけの存在だとしたら?

類の素性を知ってしまった今、ミチ子の胸を満たすのは不安ばかりだった。





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いつも拍手をありがとうございます。
つくしを見守るミチ子の視線は、実の母親のそれと同等です。
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