FC2ブログ

樹海の糸 ~10~

Category『樹海の糸』
 0
結婚は、と花沢類に問われたとき、心臓がドクドクッと波打った。あたしは、この数年間で培ってきたポーカーフェイスで、なんとかそれをやり過ごす。していない、と答えたとき、花沢類の表情がホッと緩んだように見えたのは気のせいだろうか。
花沢さんは? と同じ質問を返そうとして、…怖くなってやめた。
彼の長い指には指輪は光っていなかった。だけど、嵌めていないだけかもしれない。
いずれにしても彼の恋愛事情を、その口から直接聞きたくはなかった。
聞けば、今度こそみっともなく動揺してしまうだろう自分を自覚していた。

帰る意志を告げたときは縋るように見つめられて、あたしは彼をホテルまで送る提案をすることでその言葉の先を封じた。そして送り届けたら、まっすぐ両親の待つ家に帰ろう。
そう心に決めていた。

『もちろん牧野に会うためだよ。…会って言いたかった。夢を叶えて戻ってきたんだって』
彼の言葉がリフレインする。
彼があたしに会いにきた目的には意味を見出したくなかった。
確かなことは、いま現在も、彼とあたしとの間には大きな隔たりがあるということだ。
日本だけでなく、欧州でも名の知れたソリストにまで駆け上がった花沢類。
かたや、地方都市に拠点を置く弁護士の一人に過ぎないあたし。
自分の仕事にどれだけ誇りを持っていても、彼の成した業績の前にあっては、あたしはやっぱり矮小な存在だった。

彼と別れた3月、あたしは17歳だった。
誕生日を迎える直前だった彼も17歳だった。
―それから8年と少し。
流れた時の重みを思い知る。
出会った当初からそうだったように、いまでも彼は雲の上の存在だ。
二度とは交錯しないだろうと思っていた彼の人生と、こうして再び交じり合えたことに深く感謝する。

―ありがとう。もう十分だから。

あたしは願う。いまでも彼の幸福だけを。

―あの日、あたしから断ち切った糸が、あなたにまだ残って絡まっているのなら全てをほどいてあげる。
―だから、今度こそ本当にさよならしようね。



二度目の、そして今度こそ最後の別れを覚悟していたあたしに、彼は告げた。
あたしが心から恋い焦がれて、だけど、もはや聞きたくはなかったその言葉を。
「俺はいまでも牧野を愛してるよ。…8年間、ずっとあんたを想い続けてきた」
あたしをきつく抱きしめる花沢類からその言葉を聞いたとき、心が引き攣れて激しい痛みを発した。懐かしいフレグランスは、あたしに幸せだった頃の記憶を呼び起こす。
―あたしのことは忘れてほしい。あのとき、そう言ったのに。
「学生の頃は互いに抱えるものがたくさんあったよね。…でもこうして大人になってみて、それは変わったと思わない?」

確かにあたし達を取り巻く環境は大きく変わった。
あたしには、あのとき弁護士になる夢があった。
護らなければいけない家族があり、彼に明かせない困難があった。
花沢類にも、バイオリニストになる夢があった。
生まれたときから課せられていた使命があった。
たぶん、あたしの知らない困難も多くあっただろう。

今はそれぞれが夢を叶え、護るべきものも形を変え、自分自身で人生を選択できるようになった。彼はそう言いたいのだろうと思う。
でも、でも、…でも。


「俺は牧野しか欲しくないよ。…あんたは?」
耳元で囁かれ、問われる。胸がつまって言葉が出ない。
あたしの中では、二つの思いが激しくせめぎ合っていた。このまま彼を拒んで、あたしという呪縛からもう解き放ってあげるべきだという思いと。プライドもわだかまりも手離し、彼の想いを受け入れ、共に生きていきたいという思いとが。
「愛してる。牧野を愛してる。…自分でもどうしようもないんだ」
彼の熱情は、あたしの心にトクトクと流れ込み、堅く築き上げた感情の堰を壊していく。


―あぁ、ダメだ。
あたしは覚悟した。あたしの想いが、止めどなく溢れてしまうことを。


「…花沢、類っ」
かつてフルネーム呼びはあたしだけの特権だった。
花沢類はそれを耳にすると、腕の力を緩めて二人の体の間にわずかな隙間を作り、あたしの顔を覗き込んだ。あたしはボロボロと涙を零して泣いていた。
「…どうしてっ、…どうしてあたしなの?」
鋭く叫んだ声が震えている。
彼に不自由を強いたつもりなどなかった。

「あの日、あんたの未来を思って突き放したのに…っ。あんたは自由だったのに…。どうして、あたしを想い続けたりなんか…」
「どうしてなんだろうね。…だけど人を好きになるって、そういうことだろ? 自分でもどうにもできない」
花沢類は笑う。
あたしの大好きだった微笑を浮かべて。
「確かにあんたの言うように俺は自由で、多くの人との出会いがあったよ。だけど、俺の心の中にはいつもあんたがいた。もう忘れよう、考えないようにしようと思ってもできなかった。…でも、これは俺自身の問題だから、牧野の責任じゃない」


―あたしの心の中にもいつもあんたがいたよ。花沢類。
その場所には他の誰も入りこむことができなかった。あたしの心にある、あたしにさえもどうすることもできない、その不可侵の領域には。


「俺達、もう一度始めよう? …今度こそ、永遠を約束するから」
彼の覚悟はもう決まっていた。
…そして、あたしの方も。
あたしは両腕を彼の背に回し、ぎゅうっと強く彼を抱きしめた。
「…ごめん…ごめんね。…あたしも類を愛してる。ずっと、ずっと、類の事が忘れられなかった」
初めて口にした『愛してる』の言葉。
抱き返す力がぐっと強くなる。喜びに満ちた彼の声がした。
「…やっと、あんたの本当の気持ちが聞けた」



その夜、類とは数え切れないほどキスをした。
秘め続けた彼への想いを、あたしはひとつひとつ言葉に紡いで彼に伝えた。甘い体温に触れ、互いの境界を見失うほど彼と融けてひとつになり、あたしのすべてを彼に許した。

愛し合うことはあたしにとって二度目の経験だったけれど、彼にとってもそうだったと聞いて、あたしはひどく驚いた。
「お互いが初めての相手で、二度目も、それから以降もずっとそうだなんて幸せなことじゃん」
その言葉に、あたしはまた涙を零す。
「俺達にはそれぞれが円熟するための時間が必要だったんだよ。…思った以上に長くかかったけどね」
類はあたしの涙を拭い、その目元に優しくキスをしてくれる。
「お互いを信じて、その苦しい時間を一緒に乗り越えていくことも、俺達にはきっとできたと思うよ。…だけどあの別れがあったからこそ、夢を叶えることに躍起になったのも事実なんだよね…。あんたもそうでしょ?」

「うん…。でも、正直に言うと、あたしはこうして類と巡り合う未来を想像してなかった。…類に相応しいのは自分じゃないって、あの頃もずっと思ってた」
―あたしには、類は眩し過ぎる存在だったから。
そして、それは今に至るも変わらない。
「…類に好きと思ってもらえる要素が、自分に見当たらないって最初に言ったよね?」
類は頷く。
「その1つ1つを教えるって俺は言ったよ。…でもそれを分かってもらえなかったのは、俺の努力が足らなかったんだろうね」

あたしは首を振る。
類は言葉通りにあたしの美点をたくさん見つけてくれた。
あたしが、あたしを好きでいられるように。

「あの頃よりは自分に自信が持てるようになったよ。でも、まだこうして迷ってしまう…」
類は、ふぅーっと長いため息を吐くと、おもむろにあたしを抱き寄せた。
「…あんたは、俺の幸せを願ってくれてるんだよね? 昔も、いまも」
「うん…」
「それなら答えは一つじゃん。俺がそう望んでるんだからさ」
彼は優しく目元を綻ばせて笑う。
「めいっぱい幸せにしてよ。俺のこと」
「……うん」


―もう迷わない。類が確かな絆をあたしにくれたから。
―類を幸せにする。あたしの全身全霊をかけて。


新たな誓いを胸に抱く。あたしは彼の温もりに包まれたまま、深い安堵とともにゆっくりと眠りに落ちていった。


関連記事
スポンサーサイト



0 Comments

Post a comment