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37.約束

Category『Distance from you』 本編
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闇の中から声が響く。
優しくて心地いい低音が、鼓膜をくすぐる。

「ねぇ、起きて…」
「……ぅ……ん…」

―誰…だっけ?

日頃の仕事疲れもあって体が重い。
つくしはなかなか意識を浮上させられない。
声は次第に清明になる。

「先生、ごめんね。起きてくれる?」
「…………」

―そうだ。
―この声、花沢さん…っ。

つくしは急速に覚醒する。天井の常夜灯を見つめて一瞬だけ混乱したが、昨夜意図せずして、彼をここに泊めることになったことをすぐに思い出した。
慌てて身を起こして声の元を辿ると、類はつくしの部屋には入らず、引き戸を少しだけ開けて入口から彼女を呼んでいる。
…枕元で彼に起こされていたら、文字通り飛び上がったかもしれない。
彼のそうした遠慮がちな行動に、彼なりの気遣いを感じ取ったような気がした。


「朝早くにごめん。帰るから、鍵を閉めてほしいんだ」
「分かった。…すぐ行くからちょっと待ってて」
つくしはベッドを下り、寝間着の上に大きめのパーカーをさっと羽織った。
時刻は5時20分、起こすつもりでいた時刻より30分ほど早い。
手櫛でさっと髪を整えると、つくしは居間へと移動した。

「おはよう、先生。…昨日はそのまま寝ちゃってごめん。ちょっとだけ休むつもりがつい…」
類はもう身支度を整えていた。使用した寝具もすでに畳んで置いてある。
つくしは欠伸を噛み殺しながら、寝起きで霞む目をこすった。
「うぅん。私の方こそ、あなたを起こしきれなくてごめんなさい。何度も声はかけたんだけど…」
「俺、一度寝たら寝汚いんだ」
「…疲れてたんだと思う。寒くなかった?」
「大丈夫、いつもより深く眠れたくらい」
と類は微笑んだ。
つくしもそれに応えようとし、また欠伸が出そうになるのを慌ててこらえた。



二人は揃って階下に移動した。1階は深々と冷えこんでいた。
日はまだ昇らず、外は暗いままだ。いつの間にか雨が降り出したようで、外からはポツポツと軒を打つ雨垂れの音がする。
リンの入った棺に目が留まる。リンは午前中のうちに火葬され、ここに戻ってくる。

裏口に立って振り返り、あのさ、と前置きして類は言った。
「いつか、俺にスペアキーを預けてくれない?」
「…うちの?」
「うん」
つくしはきゅっと唇を引き結んだ。
類が貴重な時間を割き、自分を深く案じてくれていることはよく分かっているつもりだ。誠実な人だ、と思う気持ちも確かにある。
だが、まだ彼がプライベートゾーンに入ってくることを、完全に許容できているわけでもない自分を自覚してもいる。
そのためにはもう少し時間が必要だった。

「…考えさせてくれる?」
「もちろん。…だってこれは予約だから」
類は笑う。
「いつかでいいんだ。でも、叶えたいことは先にちゃんと伝えておきたいんだ」
「…前向きに検討いたします」
四角四面なつくしの返答に、類も歩調を合わせる。
「ぜひ熟考のほどを…」
つくしの顔にも微笑が浮かんだ。




「…車、替えたんだね」
駐車場の定位置に停まっている白い車は、類の所有物だった。
彼が濡れぬよう傘をさしかけてやりながら、つくしはポツリと問う。
「いや、買い足した。あの車も時として必要だから」
「…どうして、買い足したの?」
類は一拍の間を置いて答える。
「先生とドライブに行きたいから。あの車だと悪目立ちするし、あんたもいい気はしないだろ?」
「………………」

つくしは返答に迷う。
目の前の車にしたって国産車のグレードの高いもので、決して安い買い物などではない。維持費用のこともある。
それを事も無げに言ってのけるところに、自分との違いを改めて認識する。


「もしかして、ちょっと引いてる?」
「…うん、少しね」
つくしは正直だ。
類は微笑を残し、暗い車内へと滑り込んだ。
「傘、ありがとう。早くに起こしてごめん」
「私こそ……昨日は、来てくれてありがとう」
昨夜、彼が寝入っていたために伝えられなかった言葉を、ちゃんと伝えておく。
「役に立てたなら本望だよ。……週末にまた来るね。先に戻って」
類はそれ以上の見送りを断り、つくしに家の中へ入るように促した。


つくしは裏口のドアを背にしたまま、類の車のエンジン音が遠ざかっていくのを静かに聞いていた。
類はいつも別れの時に、つくしに約束をする。
次にいつ会えるのか。
その約束が胸の奥に小さな火を灯す。

いつか、彼にスペアキーを渡せる日が来るだろうか。
その日が来るまで、彼は、待っていてくれるだろうか。

類の言葉が心に残っている。
『やっと好きな人に出会えたんだから、1年や2年なんて軽く待てる』


…待っていて。
私の気持ちが、あなたに追いつくまで。





いつも拍手をありがとうございます。70,000HITが目前になってきました♪
HIT記念は前後編に収まり切らず中編になりました。最後まで書き上げてからUPするので、公開予定日は改めてアナウンスしますね。
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