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56.呼称

Category『Distance from you』 本編
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帰途につく頃には、陽はだいぶ傾いていた。
到着は午後6時半を過ぎる予想であることを告げ、次いで類は希望を述べる。
「今日も夕食を一緒に食べたいんだけど、いい?」
つくしはほとんど間を置かずに、了承の返答をする。
彼がそう言い出すような気はしていたし、つくしとしても類と過ごす時間がまだ続いてほしいと思っていた。
「いいよ。でも食材が足らないから買い物に行かなきゃ」
「店まで誘導してくれる?」
「うん」

暮れていく藍の空と、次第に鮮明になっていく星の光を眺めながら、つくしは思う。
今日は本当に素敵な一日だった。
馬の魅力を、乗馬の楽しさを知ることができた。さらには類の新たな一面を知ることができ、……より彼のことが好きになれた気がする。
類と手を繋ぐことにはもう慣れつつあった。
彼は急がず、焦らず、つくしの気持ちが追いつくのを待っていてくれる。
その姿勢がつくしを安心させる。


「夕食だけど、花沢さんは何が食べたい?」
何気なく、つくしがそう問いかけたときだった。
「その呼び方だけどそろそろ変えない? 俺も“先生”って呼ぶのをやめるから」
類の提案に、つくしは思わず運転席の方を見つめた。
「なんて呼べば…」
「下の名前だけで。敬称抜きの」
「あなたを、名前で?」
「うん。…まさか憶えてないとか言わないよね?」
つくしは黙り込む。類は苦笑を洩らす。

「……ちゃんと憶えてるよ」
ややあって小さな声で返答がある。
「抵抗あるなら無理しなくていいよ。…でも俺は呼んでいい?」
「…うん。私も努力してみる」
「努力が必要なんだ?」
「だって…ずっとそう呼んできたから」
類は笑う。
「…じゃ、さっきの質問をリトライ」
できるだけ気負わせないように、自然に促す。
つくしは一拍の間を置いて、こう尋ねた。
「夕食だけど、…類…は、何が食べたい?」



つくしが少し無理をして自分の名を呼んだことを、類は察知していた。
反応が曖昧になるときは、たいてい過去絡みの何かがある。
彼女の心をいまも蝕む、元恋人の存在を強く感じる。
だが、類は確信している。



―過去は過去だ。
―10年間の呪縛を解くとしたら、それは自分しかいない。



買い物を終えて自宅に帰り着いたときには、辺りは真っ暗になっていた。
つくしはシロンを連れ、類は買い物袋を持って、室内へと入った。
外で走り回って汚れたシロンの手足を綺麗にして3階に上がり、つくしの帰りを待っていた愛猫達に声をかける。
「ただいま、いい子にしてた?」
5匹になった猫達は、それぞれが思い思いの場所で寛いでいた。
揺り椅子の近くにカイの姿がないことには徐々に慣れてきた。犬はシロンだけになってしまったので、遊び相手を探してあげるべきだろうか、とつくしは考えている。

給餌と水替えを済ませて階下に下りると、類が購入した食材を卓上に並べ終わったところだった。
「どれを使うんだっけ?」
物慣れない作業に困惑している様子の彼に微笑んで、つくしは使う予定のない食材を冷蔵庫に片付けていく。今夜、類が希望したのは鍋料理だった。一緒に買い物をしているうちに、彼がそう言い出したのだ。
時刻は7時を回っていたし、調理はできるだけ短く済むものが良かった。
「手伝う?」
「もちろん」
つくしは類に黒の前掛けを渡し、自分はエプロンを身につけた。


しかしながら、鍋料理の場合、手伝う内容は限局されている。鍋に出汁を入れ、食材を洗って切って煮るだけの作業に、類は自分でも簡単にできそうだとコメントした。
「包丁、使えるの?」
「なんとなくね」
「…練習は追い追いだね」
思わず先々に触れるような発言になり、つくしはハッとする。
類はもちろんそのことに気付いてはいたが、あえて触れなかった。
「覚えるからレクチャーしてね」
「…うん」
類の方を見ることはできずに、出汁がくつくつと音を立てて沸く様を、つくしはじっと見つめた。





いつも拍手をありがとうございます。
二人の出会いが9/8、今日が1/2。ようやく呼び名を…という段階です(;^_^A
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