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61.転機

Category『Distance from you』 本編
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1月7日、週始めの朝の出来事だった。
「…先生、変な書き込みがしてあります」
パソコンで病院のホームページをチェックしていた由紀乃から少し強張った声が発され、つくしとミチ子は急いでその傍に寄った。
「どれ?」
「…これです」
由紀乃が指で差し示したのは、ヨモギとハコベの飼い主を募集した記事へのコメント欄だった。結局つくしは2匹を自分で育てることに決めたので、昨年の内にその旨を記載し、現在は募集を行っていなかった。


そこに書き込まれていたのは、たったの3文字。
悪意も明らかな一言で。
『偽善者』と。


「先生! こんなの、気にすることないわよ!」
ミチ子がすぐ憤慨したのに対し、つくしはきゅっと唇を噛み、黙り込んだ。
こうした嫌がらせのような書き込みは、実のところ初めてではない。顔が見えないという匿名性は時に悪意を剥き出しにする。加えて、先月から感じている第三者の存在が頭を掠め、つくしの気分は暗く塞いだ。
「念のため、花沢さんにも報告しておきましょう?」
気遣わしそうな由紀乃の声に、つくしは頷いた。
「私から伝えますから、とりあえずその記事のコメント欄をクローズにしておいてください。他にもあればまた対処します」
「はい」

類からは土曜日の朝以降、連絡がなかった。よほど忙しいのだろうと推察する。
昨晩、つくしは出張を労う短いメールを送信した。類がそれを読んだかどうかは分からない。電話をかけるという選択肢は、今のつくしにはなかった。
結局返信はなく、彼が今、どこにいて何をしているのかは不明なままだ。
由紀乃の手前あのように言ったが、つくしはこうした些末なことで彼の手を煩わせたくなかったので、コメントの一件は伝えないことにした。
また悪意のある書き込みが続けば、と考えるにとどめる。

―『偽善者』とは?

捨て猫を保護し、飼い主を募集した行為に対する批評なのか。
貰い手のない猫を引き取った行為に対する批評なのか。
…それとも、何か他の。




****************




―同日夕刻、花沢物産本社。


「私が代表とはどういうことでしょうか?」
類は問いかける。電話を通じて、フランスにいる相手に。
新規事業に関する資料を取り寄せて驚いたこと。責任者の欄には父の名ではなく、自分の名が記されていた。
『例の事業は、お前にすべての采配を一任する』
彼の父であり、代表取締役社長である花沢統は、感情を窺わせない声でそう返した。

『デフレの影響が大きい。次で大きな成果を収めることが急務だ。私は他の事業で手が離せない。お前が適任と判断した』
言わんとすることは分かる。
…だが、承服しがたい。
「私が日本を離れると、こちらの交渉をすべて専務に任せることになりますが、その点についてはどのようにお考えですか?」
昨日までの大阪出張は、専務である耀のフォローのためだった。破談しかけていた商談は、なんとか良好な関係を持ち直して決着した。
そうした類の働きの詳細を統が知り得るとは思わないが、少なくとも耀の力量不足については把握しているはずだった。

『専務には酒本をサポートにつかせる』
その言葉に類は軽く目を見開いた。
酒本は統の第一秘書。彼の懐刀とも言われる敏腕だ。一時期は類も、田村ではなく酒本の教育指導を受けていた。彼を耀のフォローに据えるなら、確かに大抵のことは乗り切れるに違いない。
『速やかに引継ぎを済ませるように。下旬までにはこちらに来なさい』
至上命令だ。統の意思は変わらない。
承諾する以外の選択肢はそこに存在しなかった。
「…承知いたしました」
類は感情を含ませずに返答すると、そのまま通話を終えた。


現在担当している業務を誰に引き継ぐのかを考えるのは、別の意味で厄介な仕事だった。すべてを耀に引き継がせるのは無理がある。その中のどれを、という選択には、先方のためにも特別な配慮が必要だった。
「田村、交渉中の案件をピックアップして」
「準備済みです。こちらを」
田村は資料を類に手渡す。それらにざっと目を通しながら、類は呟いた。
「…お前もしばらくフランスだね」
短期の出張では田村を伴わないことも多かったが、今回はそうもいかない。類の第一秘書である彼にも同行してもらう必要がある。
「家族は何も言わない?」
「もとより覚悟の上です。私も家族も」
微笑む田村に曖昧な返事をし、類は今後の予定を思案することに集中した。


その作業が一段落すると類は立ち上がり、ガラス張りの壁面に近づき、東京の街並みを一望した。ビル街は今日も霞みがかったグレーで、類の心情に近い。
類が想うのはもちろん、つくしのことだった。今度の新規事業の代表となり、すべてを采配するのなら、渡仏期間は軽く2ヶ月に及ぶだろう。

やっと彼女が心を開いてくれたのに。まだ自分達の関係は発展途上なのに。
今回の人事の目的が、自分とつくしとを引き離すことにあるのなら、これ以上はないシンプルなやり方だった。

渡仏までほとんど時間がない。
類は為すべきことの優先順位を決め、まずあきらにコンタクトを取ることにした。





いつも拍手をありがとうございます。
二人の別離が近づいています。
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