FC2ブログ

64.餞別

Category『Distance from you』 本編
 0
「私も、類を抱きしめたいから」

つくしから発されたその言葉に、類はようやく腕の力を緩めた。
その場で反転した彼女の顔はすでに赤く染まっていた。身長差を縮めるためにつま先立ちになり、上背のある類の首にするりと両腕を絡めてくる。
「ごめんなさい。…不安にさせて」
しがみつくようにぎゅっと抱きしめられると、どうしようもなく彼女が愛しかった。

―狡いな。
―そんなふうにされたらもう怒れなくなる。

類は少し屈んで、同じように彼女を抱きしめ返す。両腕が背に回った瞬間、彼女は体を強張らせはしたが、やがてゆるゆると緊張を解いた。
しばらく無言のままに抱き合い、不穏に揺れる気持ちが凪いでいくのを待った。


「…惜しいな」
類がそう言うので、つくしは意味を図りかねて腕を緩め、相手の顔を見上げた。自分を熱く見つめる双眸に出会い、その美しい瞳に吸いこまれそうになる。
ごく至近距離での会話に、つくしの胸はいやが上にも高鳴った。
「やっと、あんたの気持ちが俺に向けられたのに」
類の手がつくしの頬にそっと触れる。
「俺達は、これからなのに」
「まだ終わりじゃない……よね?」
「もちろん」
類の即答に、つくしは微笑む。


その笑顔が過去の悲しみを含まず、ただ自分だけに向けられた純粋な笑顔であることに気付いて、類は嬉しくなる。
「餞別、もらってもいい?」
類の顔が近づく。
今までで、一番、近くなる距離。
「…分かるよね?」


類の唇が自分のそれに重ねられるのを、つくしは目を見開いたまま迎え入れた。
唇は軽く触れ合わせただけで、すぐに離れていってしまう。



―あっ。
―今、私達。
―キス、したんだ。



その感触のあまりの軽さに、不確かさに、今しがた起きたことが信じられずに、つくしは類の瞳を見つめ返してしまう。
「ごめん。事後だけど」
その目元が和む。
「…もう一回、いい?」


彼を愛しいと思う気持ちが溢れていく。そこに負の感情は存在しなかった。
これまで男性に対して抱いてきた、圧倒的な力に対する恐れや嫌悪は微塵も存在せず、ただ類のことが好きだという想いだけが浮かび上がる。
そういうふうに感じることができたことが嬉しかった。


―いいよ。


答えの代わりにつくしがそっと瞳を閉じると、それを確かめて、類はもう一度口づけた。最初は軽めに。次は角度を変えて、少しだけ深く。
類の舌がつくしを誘うように下唇をなぞると、その意を理解したようにつくしの唇が薄く開いた。歯列を割り、柔らかな舌を探りあてて絡め取ると、得も言われぬ悦楽が脳内を満たし、あとは夢中になってキスをしていた。
時折口の端からこぼれる彼女の吐息に、かろうじて保っていた類の理性は掻き消えそうになる。


彼女ではない誰かとは、キスは何度もしてきた。…それ以上のことも。
だけど愛情を伴わないそれらの行為は、一時的な肉体の欲求を満たしはするものの、心まで満たしてくれなかった。
そして5年前の婚約解消騒動を経て、自分は性愛の悦びを感じることのできない、不感応な人間なのだと思うに至った。
…だが。


―知らなかった。
―キスって、温かいんだ。


これまでの固定概念をあっけなく打ち崩される。
頭の芯が蕩かされていく感覚に惑う。
空恐ろしいほどの幸福感に包まれ、類はいつまでもつくしを離すことができない。



どれくらい抱き合っていただろう。
互いの息が上がって、ようやく唇を離した。
「…はぁ…」
「…もう。…長いよ」
「ごめんね」
目が合うと自然と笑みがこぼれて。
彼女が照れ笑う。朱に染まる顔が愛おしい。
つくしの瞳の中に、自分との触れ合いを忌避するような翳りがないことを確かめ、類は安堵した。


軽く音を立ててつくしの頬にキスをすると、類は別離の時が来たことを伝えた。
「名残惜しいけど、もう行かなきゃ」
「うん」
「見送られるとつらいから、ここでいい」
「…うん」
「落ち着いたら連絡する」
「向こうでも頑張って」

もっと何か気の利いたことを、と思うのに、言葉が纏まらない。
代わりに何度も頷いた。
―類の気持ちは分かってるよ。
そう伝えるために。


類はもう一度つくしを抱きしめると、次の瞬間には踵を返して階段を下りていった。彼の中でスイッチが切り替わったのだろう。
その背を無言で見送ると、つくしは急に足の力が抜けたようになって、へなへなとその場に座り込んだ。

自分を包む彼の移り香に気付き、つくしは両腕で自分を抱きしめると、押し寄せてくる寂寥感に目を閉じてじっと耐えた。





いつも拍手をありがとうございます。執筆頑張ります!
関連記事
スポンサーサイト



0 Comments

Post a comment