FC2ブログ

71.偶発

Category『Distance from you』 本編
 0
「先生、新患さんの問診票です。午前はこれで最後です」
由紀乃から、初診の飼い主に記入してもらうアンケートを受け取り、つくしはさっと内容に目を通した。美しい筆跡の文字で、どの項目にも詳細な回答がある。

犬種はシー・ズー、年齢は5歳、名はブラン。
今回の受診目的は、予防接種と健康診断。
飼い主の名に一木いちき美音みおと記載があり、つくしはハッとした。
少し前になるが、そうした苗字の母子に公園で出会ったことを思い出していたのだ。彼女はシー・ズーを飼っていると話していた。記載された住所も病院からほど近い。

「一木さん、お入りください」
由紀乃が診察室の扉をスライドして入室を促すと、入ってきたのはやはり彼女だった。今日は子供連れではない。
「…あっ」
一木美音は小さなゲージを抱えて入ってくるなり、つくしの顔を凝視し、小さく声を発して立ち止まった。眼鏡の奥の瞳が丸くなっている。
「こんにちは。どうぞこちらへ」
「あの…牧野さん…ですよね? 前に公園でお会いした…」
「えぇ、そうです」
つくしが優しく笑むと、美音は驚きと喜びが混じったような表情で挨拶をした。


「その節はご丁寧に道案内をありがとうございました。獣医さんでいらしたんですね」
「えぇ。こちらでの暮らしには慣れましたか?」
「はい。なんとか生活も落ち着いたので、この子のかかりつけ病院を探そうと思って、ここを見つけまして…」
美音はゲージからブランを出してやると、診察台の上にそっと乗せた。
「初めまして、ブラン。これから診察をするね」
つくしはブランに声をかけながら、そっと体に触れる。ブランは少し怯えた様子を見せたが、美音が声をかけると大人しく伏せた。
ブランと美音の強い信頼関係をそこに感じ取った。

健康状態は問題なく、続けて混合ワクチンも打ち終わると、美音は言った。
「ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。ブランはとてもいい子でしたね。また何かございましたら、ご相談ください」
つくしが応じると、美音は柔らかな微笑を浮かべてこう言った。
「今度はぜひ公園で。シロン君にもまた会いたいですし」
つくしは美音の記憶力に少し驚きながらも、笑顔でそれに応じた。




「…お知り合いだったんですね」
ブランの診察の間、ほとんど声を発しなかった由紀乃が、カルテを入力するつくしに話しかけた。
「1ヶ月ほど前に公園で会ったんです。引っ越してきたばかりで、道に迷われていて…」
「案内してあげたんですか?」
「はい。お子さんも一緒でしたし、寒いだろうと思って」
由紀乃がそのまま沈黙したので、つくしは手を止めて彼女の顔を見上げた。
そこに浮かぶ、気遣わし気な表情…。
「由紀乃さん? どうかしました?」
「あ、いえ。…ちょっと気になって」
何?とつくしが首を傾げて見せると、由紀乃は躊躇いつつも自分の意見を述べた。


「最近いろいろな事があるでしょう? ちょっと自分でも神経過敏なのかなって思いはするんですけど、先ほどの一木さんの視線が、私は気になったんです」
つくしは虚を衝かれたように由紀乃を見つめる。

―視線。

「だいたいの患者さんは、診察の間、自分のペットを見ていることが多いと思うんですよ。でも、一木さんはずっと、先生だけを見ていました。……変な言い方になりますが、なんだか観察するような目つきだなって。先生は診察に集中していたから、あまり気にならなかったかもしれませんが…」

―観察。

その言い得て妙に、思わずつくしは閉口する。
実のところ、つくし自身も美音からの強い視線を感じてはいた。だが、時にそうすることで獣医の腕を値踏みする飼い主もいることから、あまり気に留めていなかった。


「変なこと言ってすみません。…忘れてください」
思うように同意が返らず、由紀乃が謝罪を述べると、つくしは慌てて言った。
「貴重な意見をありがとうございます。由紀乃さんの立ち位置だからこそ、そう見えたんですよね?」
「はい…」
「確かに一木さんの視線は感じていました。でも、初診時にそうした飼い主さんも結構いらっしゃいますし、できるだけ気にしないようにしてたんです」
そうですよね、と由紀乃が頷く。


つくしはひどく申し訳ない気持ちになる。
“神経過敏”と由紀乃は言った。彼女の精神的ストレスには、自分と類とのことが深く影響していると思えた。
先日ミチ子に指摘された言葉が如実に甦る。
『そうした全部を、その恋の代償にしてしまっていいの?』


「念のため、あとで福重さんに相談してみます。どういう素性の人かを調べるのは、すぐにできるというお話でしたから…」
つくしがそう言うと、由紀乃はホッとした表情になり、微笑を見せた。
人の粗を探し、不審を指摘することは非常に勇気の要ることだ。
つくしは由紀乃にもう一度礼を述べると、カルテの入力に意識を向けた。



つくしは昼休みの間に福重に連絡を取り、“一木美音”なる人物について調べてほしいと希望を出した。そうした調査依頼をするのは初めてのことだった。
人の身元を疑い、勝手に素性を探ろうとするなど、決して褒められたことではない。だが、彼女との偶発的な出会いと再会とが、つくしも気にならないわけではなかった。福重は快く了承してくれた。


―その結果。


一木美音の夫は、美作系列の中小企業に勤める会社員だった。マザーパソコンのデータベースに情報があったので、すぐに照会できたという。
彼女はその妻であり、幼子の母であった。
現住所も確認でき、問診票に記載された住所と一致した。

つくしが美音本人から聞いていた話と齟齬はなく、花沢家に関連するどんな要素もそのプロフィールから発見できなかった。
福重は、念のためもう少し調査を続けてくれるという。
つくしは安堵した。


つまり、彼女は“シロ”だった。





いつも拍手をありがとうございます。励みになります(^^♪
関連記事
スポンサーサイト



0 Comments

Post a comment