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79.流転

Category『Distance from you』 本編
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「休診日に悪いんだけど、オペの補助を請け負ってもらえないかな。今日は主人が大学に呼び出されて不在なの。急性フィラリア症のコーギーで一刻を争う」
大学の同期の桑田佳奈恵から、切羽詰まった声で手術の応援要請が入ったのは、2月20日の午後のことだった。つくしは、シロンの散歩から戻って一息ついたところで電話の着信に気付いた。
佳奈恵とは、長年持ちつ持たれつの関係があり、今回のように難易度の高い手術のサポートを頼まれるのは初めてではない。

つくしは急いで1階に移動しながら、電話を続ける。
「オペは何時から?」
「牧野が来てくれるなら、すぐにでも」
佳奈恵の声はいつもより険しい。患者の容体が良くないのだろう。
「受けてあげたいけど、今、入院で預かっている猫が2匹いるの。その子達の飼い主に連絡して、了承が得られたらそっちに連れていく。少し時間が欲しい」
「分かった。頼むね」

つくしは入院患者の飼い主に連絡を取った。幸いにも電話にはすぐ応じてもらえた。他院の重症患者の手術のために病院を長時間空けなければならないこと、了承がもらえるなら患者を自分に同行させ、不調時には出先で対応させてもらいたい旨を説明した。
飼い主はいずれも昔馴染みだったために、快く了承してもらえた。つくしは2匹をそれぞれゲージに入れると、桑田クリニックへと急いで車を走らせた。


フィラリア症は、正式名称を犬フィラリア症、または犬糸状虫症という。蚊を媒介に感染する病気で、30㎝前後にもなる細い糸状のフィラリア成虫が心臓や肺動脈の血管内に寄生することで、重度の心不全や呼吸困難を引き起こす。
急性症とは増殖した虫体が後大動脈に詰まることで起きる。慢性症も循環器に様々な障害を生じさせる。最終的には宿主を死に至らしめる恐ろしい病気だ。
予防法が確立されている現在では、フィラリア症による死亡数は減少しているものの、感染源が根絶されているわけではない。そのため、いつでも感染の危険性はある。


「…あぁ、これは厄介だね」
桑田クリニックに着き、コーギーの病理画像を確認したつくしは、心臓の血管内を広く埋め尽くすフィラリアの数に驚き、眉根を寄せる。
「高齢なこともあって心不全がひどいし、長時間の麻酔に耐えられないかもしれない。でも、牧野のスピードなら可能性もあるかと思って…」
つくしのオペの腕には定評がある。
同業者である佳奈恵、その夫も、つくしの技量を高く評価している。

「…可能性は30%以下かな。それに取り除いても後遺症は残ると思う」
「私の見込みよりは高いよ。飼い主はとにかく手を尽くしてほしいと言ってるの。どんなに可能性が低くてもいいからって。…お願いできる?」
目の前で診察台に伏せるコーギーは呼吸も浅く、ひどく苦しそうにしている。手術以外に助かる方法はないが、その成功率は低そうだ。


―だが、つくしは迷わなかった。


「すぐ始めよう。全力を尽くすから」
「恩に着るわ」
二人は待合室にいたコーギーの飼い主と話をし、つくしが主体となってオペを実施することへの了承を得た。その上で、補助に入る動物看護師達と共にオペ室へと移動した。


手術方法はシンプルではあるが難易度が高い。頸動脈の血管を露出させて切開し、そこから特殊な長さのアリゲーター鉗子を挿入して心臓まで到達させ、直接虫体を挟み込んで取り出すのだ。虫体を視覚的に捉えながらではなく、指先の感覚のみを頼りに進めるオペなので、完全な駆逐は難しいとされている。
全身麻酔による心不全悪化への懸念からスピードが要求されるのに、鉗子によって心臓の血管壁を傷つけないようにする細心の注意も必要で、施術者のプレッシャーも大きい。

「よろしくお願いします。オペを始めます。…メス」
時刻は午後5時。
つくしの号令と共にオペは始まり、コーギーの首の後ろにメスがすっと入った。


―それから、2時間後―。


「…相変わらず見事な腕ね」
麻酔が薄れ、呼吸が安定してきたコーギーを観察しながら、佳奈恵がしみじみとつくしを褒め称えた。当のつくしはベッドサイドの椅子にへたり込んでいる。集中力が切れたのだ。
「…何匹いた?」
「42匹。恐れ入るわよ」
特徴的な心雑音が消えるまで、二人で交代しながらのフィラリアの摘出作業は続いた。画像が示す通りに虫体の数は多く、作業は延々と続くものと思われたが、つくしの感覚はオペの間中、ずっと研ぎ澄まされたままだった。

「画像ではどう?」
「心不全は改善してる。まだ浮腫が気になるけど時間が経てば…。オペ後のフォローは責任持ってやるから任せて」
「よろしくね」
つくしは、手術台に伏せたままのコーギーの背をそっと撫でる。
「…頑張ったね。えらかったね」
慈愛に満ちたつくしの横顔を、同じ獣医師としての羨望を交えながら、佳奈恵はそっと見つめ続けた。

コーギーの飼い主への報告も済み、つくしは帰り支度を始めた。同行させた自院の患者の2匹は異常もなく、入院部屋で大人しくつくしを待っていてくれた。
「じゃあ、私はこれで」
「今日は本当にありがとう。謝礼はいつものように振り込んでおくから」
クリニックはすでに閉院している。
猫を納めた2つのゲージを抱え、つくしが裏口から出ようとした時だった。


「あ、主人が帰ってきたみたい」
表玄関の方で物音がして男性の声が聞こえたため、佳奈恵がつくしを引き留める。
「牧野、ちょっと待ってね。お礼くらい述べさせて。…公彦さん!」
佳奈恵が、大学から戻ってきた公彦に声をかけにいく。
待合室から二人のやり取りが聞こえた。公彦は客を伴って帰宅したようだ。

それならばと、つくしは控えめに声を上げる。
「失礼します」
つくしは公彦とも学生時代からの付き合いなので、謝辞の有無はその関係性に影響しない。そのまま裏口を出ようと、つくしが踵を返したときだった。


「牧野さん、ちょっと待って!」
公彦の声が、つくしを引き留める。
つくしは何の気なしに背後を振り返った。
「今日はありがとう。別件で少し、話を聞いてほしいんだけど」
桑田公彦のすぐ後ろに立つ、佳奈恵ではない別の人物の存在に気づく。
つくしは、息を呑んだ。
「彼は、ウイルス学研究室の志摩准教授。新しいワクチンの臨床研究に協力してくれる開業医を探しているらしくて…」
公彦の声がだんだん遠のいていく。


……嘘。
どうして、ここに……。


つくしの瞳が大きく見開かれる。
ズクンという激しい痛みが心臓に走り、息がつまった。


二度と会ってはいけないと思っていた。
それでも、会ってしまうかもしれない予感に慄いていた。
…彼が東京に戻ると聞いた、あの日からずっと。


「久しぶり」
かつて自分の名を呼びながら、欺瞞の愛を囁いたバリトンボイス。
10年振りに会う彼はやはり相応に年を取り、だが、依然として自信に満ちる双眸で、驚愕して立ち尽くすつくしを見据えていた。


「…志、摩さん」
決して再会を喜んではいない、呆然としたその声の響きが、場の空気を一瞬にしてピンと張りつめたものへと変えた。





いつも拍手をありがとうございます。
さて、志摩の登場です。つくしの試練が続きます。

余談ですが、フィラリア症の虫体に興味がある方、ぜひ画像検索してみてください。ちょっと勇気が要ります…。後学のためOPの動画も見ましたが久々に衝撃が走りました…((((;゚Д゚))))
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2 Comments

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2019/04/15 (Mon) 11:13 | REPLY |   
nainai

nainai  

ゆ様

こんばんは。コメントありがとうございます(*'▽')
体験談は本当に参考になります。18歳とは大往生でしたね。
ゆ様の手厚いお世話がよかったのでしょうね。

志摩の登場でした。読者の皆様には嫌な展開だろうなぁと思いながらの更新でした。つくしの衝撃も大きいです。『退官式』でフラグ立ててましたから二人の再会は必至でした。

更新頑張ります! 緊迫の展開ではありますが、どうぞお付き合いくださいませ。

2019/04/15 (Mon) 21:57 | REPLY |   

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