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80.合点

Category『Distance from you』 本編
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桑田佳奈恵が、クラスメートであるつくしと親しく話をするようになったのは、大学2年前期の解剖実習のときからだった。
メスを持つのも初めてだという学生が多い中、つくしは迷いなく検体にメスを走らせ、誰よりも早く、講師の指示通りに解剖を進めた。その鮮やかな手捌きに、実習の補助についている院生からも驚きの声が上がったほどだった。

つくしのことは1年次より優秀な学生として認識していた。講義室ではいつも前方の席に座り、質問にも意欲的で、その鋭い着眼点からも彼女の聡明さが窺えた。
「牧野さん、どうしてそんなに作業が早いの?」
その日の解剖実習を一番に終えたつくしに、まだ作業中だった佳奈恵はつい問いかけていた。普段行動を共にするグループが異なるため、ほとんど話したことがなかった佳奈恵に対し、つくしは淡く笑んでこう答えた。

「祖父が獣医師なの。大学が終わったらクリニックで勉強させてもらってて、オペを見慣れてるせいかも…」
「そっかぁ。…ねぇ、良かったらここ教えてくれないかな? うまくいかなくて」
つくしは急な要望にも控えめな笑顔で応じてくれた。
佳奈恵はその丁寧な説明に好感を覚え、以来、何かにつけ交流を続けていた。



2年後期が始まり、偶然つくしと帰り道が一緒になった日があった。
彼女の黒髪が風に靡いてサラリと流れたとき、その白い項につけられたキスマークがあらわになった。見てはいけないものを見てしまった気がして、佳奈恵はドギマギした。つくしに交際相手がいることは知らなかった。
何の気なしに彼女をからかった。「情熱的な彼氏がいるんだね」と。

照れ笑うだろうと思われたつくしの反応は、佳奈恵の予想外のものだった。すぅっと表情が消え、驚くほど冷静な声で返答があった。
「付き合ってる人はいないよ」と。
その頑なさに、佳奈恵はそれ以上を問うことができなかった。



大学3年の冬、つくしが別学部の同級生と交際を始めたようだと人づてに聞いた。佳奈恵は相手のことを知らなかったが、その後、構内で一緒に過ごしているところを二度ほど見かけた。可もなく不可もないような相手だと思った。
しかし、3ヶ月も経たぬうちに二人が破局したことを知る。別れた原因については聞いていない。
佳奈恵とつくしの関係は付かず離れず。互いのプライベートには深く関わり合わない、ある意味でビジネスライクな付き合いだった。
だからこそ心安く、長続きしたともいえる。



やがて学年が上がり、同じ研究室に配属されると、それを機につくしとの友人関係は深まった。佳奈恵は当時、現在の夫である桑田公彦と交際しており、彼女に恋愛相談を持ち掛けることがあった。
つくしは折に触れ、的確なアドバイスをくれた。

クールな才女。
それが彼女の代名詞だった。

研究室の先輩がつくしに好意を寄せていると知り、公彦に頼まれてそれとなく彼女に探りを入れたことがあった。そのとき、佳奈恵は初めて彼女のトラウマを知る。
「悪いけど誰とも付き合えない。…佳奈恵だから明かすけど、私、男の人が苦手なの」
だから3年生の時の交際相手とは上手くいかなかったのだと説明され、合点がいった。だが、その根本的な理由、…なぜ男性が苦手なのかという部分については、つくしは決して触れたがらなかった。



大学を卒業してからも、つくしとの交流は続いた。
やがて佳奈恵が公彦と結婚するに至った際も、彼女は心尽くしの祝いの品を贈ってくれ、結婚式にも参列してくれた。
彼女の祖父が逝去した際には、公彦と共に葬儀に参列した。
お互いが一番の親友ではないけれど、佳奈恵はつくしを同志として心から尊敬していたし、良きパートナーであり続けたいと思っていた。つくしが祖父の跡を継ぎ、クリニックを切り盛りするようになってからも、時折はメールを送り合い、また時には今回のように重症患者を救うべく協力体制をとり合ってきた。
そうした深い信頼関係が、これからも続いていくものと信じて疑わなかった。



先月の退官式の日、久しぶりに会うつくしの雰囲気がどこか柔らかいのを見て、佳奈恵は驚いた。彼女が選びそうにはないピンクゴールドのネックレスに、男性の影を感じ取った。苦手意識を持っていた交際にやっと前向きになれたと話す旧友に、佳奈恵は温かい眼差しを注いだ。
その交際がずっと続いていってほしいと、彼女の幸せな笑顔が見てみたいと、佳奈恵はあのとき密やかに願ったのだ。



―だが、今―。



公彦が連れ帰ってきた男性を見たとき、見覚えのある顔だと思った。
それが、同期との会話の中に出てきた、ウイルス学研究室の新しい准教授、志摩久志であることにはすぐ思い至った。大学在籍時の記憶が呼び戻される。
研究協力のために大学に出入りしている公彦の口から、志摩の名を聞くことがここ最近になって何度かあった。だが、特別親しいとは聞いていない。
彼がなぜここに来たのか、その目的についてはまったく見当がつかなかった。


奥の部屋からつくしが暇を告げる声がする。来客に遠慮したのだろう。
佳奈恵が答えるよりも前に動いたのは夫だった。
「牧野さん、ちょっと待って!」 

―なぜか、嫌な予感がした。

志摩の来訪目的を説明する公彦の声。…夫はおそらく何も知らなかった。
つくしの顔がさっと青褪めるのが見て取れた。
やめて、と彼らを制止するよりも前に、志摩がつくしに言葉をかけた。
「久しぶり」
甘く、力強いバリトンボイス。
「…志、摩さん」
決して再会を喜んではいない、呆然としたつくしの声の響きが、場の空気を一瞬にしてピンと張りつめたものへと変えていく。

その段になって、夫はようやく事の重大さに気付いたようだった。
二人がただの知り合いなどではないことは一目瞭然だった。
驚愕した表情のまま固まったつくしの目線だけが横に流れ、同様に身動ぎできない佳奈恵の目線とかち合う。疚しさを隠すように、つくしがうつむいた。


―あぁ。
佳奈恵は嘆息する。


初めて見るつくしの表情だった。
現状を受け入れがたいというような、恥じ入るような、そんな表情。
敬愛してやまない彼女に、そのような顔をさせてしまったことが、友人として何より心苦しい。


唐突に甦る、在りし日のつくしの姿。
その首筋。
…キスマーク。

あの晩夏の帰り道、偶然目にしたそれをつけたのは、…誰だったの?


「話がしたい。少し時間をもらえないか」
志摩の唐突な要望に、つくしはうつむいたまま首を振る。
ゲージを持つその手が細かく震えていた。





いつも拍手をありがとうございます。今回は佳奈恵sideでした。
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