83.自問
『お前が来るまで待つ。今度こそ来てくれ』
志摩の言葉を、あれから何度思い出しただろう。
彼が投げかけた一方的な約束を、心の中で一言一句違えず反芻しながら、その日が近づいてくるのを不穏な気持ちで待った。
彼の指す店なら分かる。
二人の始まりの場所だ。
会いに行くべきか、行かざるべきか。
いまだに明確な答えが出せない。
ぐるぐると同じ問いを繰り返し、つくしは煩悶し続けた。
来るまで待つ、と言われたせいだろうか。
今度こそ、とはどういう意味だろうか。
志摩への想いは昇華したはずではなかったか。
自分でも感情を持て余し、理解できないでいる。
志摩に再会した日の翌朝、類からはメールが届いていた。
気が動転していて、昨晩の出来事を福重に口止めすることを失念していた。志摩との望まぬ再会は、すぐ彼へ報告されてしまっただろう。
メールの末尾に“帰国”の文字を拾い、つくしは思わず涙ぐんだ。彼と離れている期間の、なんと長かったことかと思う。
―類が帰国する。やっと…帰ってきてくれる。
そのことを支えに、挫けそうな気力をなんとか奮い立たせた。
佳奈恵からもメールが届いた。
それは陳謝文だった。
夫婦ともに事情を知らず、申し訳ないことをしてしまった。
志摩氏について今後一切問うことはしない。
どうかこれまでの友情に免じて、変わらない付き合いを続けてほしい、と。
佳奈恵が自分に対して、深い親愛を抱いてくれていることは分かっていた。
あの夜、バックミラー越しに見た佳奈恵の顔は哀切に歪んでいて、どれほどの心労をかけただろうと思うと胸が痛かった。
佳奈恵へは、今は時間が欲しい、と書いて送った。
これまでの友情へは自分も深く感謝しているから、と添えて。
つくしは、ミチ子や由紀乃に体調を気遣われながら、いつも通り診療を続けた。
気持ちを宥めるためにサンルームに籠る時間が増えた。
食事はのどを通らなくなり、眠りの浅い夜が続いた。
つらく、苦しい時間が過ぎた。
土曜日、昼休みの時間帯に合わせ、美作あきらが病院を訪ねてきた。福重の報告を受け、つくしの体調を案じてくれたようだ。
「相手の男に脅しをかけてほしいなら、協力は惜しみませんが」
柔和な微笑を浮かべながらサラリと提案するあきらに、つくしは首を振る。
「私自身の問題です。自分で決着をつけたいと思います」
「分かりました」
あきらはそれ以上追求せずに提案を取り下げ、代わりに類に関する情報を明かす。
「類は予定通りフランスを発ちました。じきに入国するでしょう」
「…本当ですか? 彼は帰国の日時については詳細を書かなかったので…」
「まだ不安要素があったからでしょう。類は、あなたを、ぬか喜びさせたくなかったんだと思います。…本当に大事に想っていますから」
あきらの言葉は、つくしの涙腺をゆるく刺激した。
そのままうつむき、顔が上げられなくなる。
―あぁ、本当に限界だったんだな。
久しぶりにつくしと会い、少し面窶れしたその様子にあきらは憐憫の情を抱いた。本永と福重の定期報告により、つくしの動向については類より詳しいくらいだ。あきらは、つくしの心が極限まで追い詰められていたことを悟る。
それだけの出来事が彼女の身に起きたのだ。様々な情報や憶測が溢れる中、類の言葉だけを信じて待つしかなかったつくしの苦悩は想像するに余りある。
「類は必ず牧野さんの元に帰ってきます。だから、あと少しだけあいつの帰りを待ってやってくれませんか」
「…はい」
胸にこみ上げてくるものを堪えるのに必死で、つくしは小さく返事をするだけで精いっぱいだった。
―類は、今、東京のどこにいるだろう。
―いつ、私に会いに来てくれるだろう。
シロンを散歩させている間、考えるのはその事ばかりだった。
心ここに在らずの状態を悟られたのか、シロンが何度も甘えた声で鳴いて身を摺り寄せ、つくしの気を引こうとする。屈みこんでシロンを抱きしめると、愛犬は嬉しそうに尾を振ってそれに応えた。その温もりがひどく愛おしかった。
―逢いたい。逢いたい。…逢いたい。
不安で揺れる心を、あなたの優しさで包んで。
いつかの日みたいに、ずっと一緒にいようって言って抱きしめて。
強くなりたい。強く在りたい。
自身の弱さは身の内に隠して、ずっと一人で生きてきたけれど。
あなたに出会って、お互いの抱える弱さをさらして、手を取り合って生きていくのも悪くないってやっと思えたの。
あなたを愛してる。
ただ、ただ愛してる。
あの人ではない誰かを、こうして深く愛せるようになれたことが嬉しい。
その想いを、堂々と胸を張って言えることが嬉しい。
たとえこの先、あなたと進む道を分かつときが来てしまったとしても、今この瞬間の気持ちだけはきっと、ずっと、変わらない。
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