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93.回顧

Category『Distance from you』 本編
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志摩の脳裏には、在りし日のつくしの姿が鮮明に焼き付いている。
あの日、この店で、この席に座る自分に話しかけてきた彼女。
その一言一句が忘れられない。
彼女は若く、未来への希望に満ち溢れ、そして驚くほど聡明だった。



「志摩さんですよね。ウイルス学研究室の」
「あぁ。確か……牧野さん、だったね」
「はい。先日の実習ではお世話になりました」
志摩はすぐに彼女を思い出した。実習で教授の補助についている間、彼の発表した論文について詳細を質問してきた学部生だった。
実習後、彼女の提出したレポートは秀逸で、有望な学生が入学してきたと研究室内でも話題になったほどだった。

「ここで論文を執筆なさっているんですか?」
「…あぁ」
研究室での作業や思考が手詰まりになると、息抜きのためにこの店に足を運ぶのが彼の常だった。店の静かな佇まいとオリジナル珈琲がお気に入りだった。大学からはやや遠く、学生の出入りはほとんどなく、彼だけの隠れ家のつもりでいた。
志摩はノートパソコンの画面を伏せると、つくしに微笑を向けた。
「環境が変わると、いいアイディアが浮かぶことがあるんだ」
「…あっ、すみません」
「何が?」
「今も思案中だったんですよね。…お邪魔いたしました」
すみません、ともう一度詫びて頭を下げ、そのまま席を離れていこうとするつくしを、志摩は思わず引き留めていた。


「待って。…ちょっと意見を聞かせてほしい。ここに座って」
志摩が自分の向かいの席を指さすと、つくしは目を丸くした。
その素直な反応が小動物のようだ、と彼は思った。
「わ、私、1年生ですよ? とても志摩さんのお役に立てるとは思えません」
「下手に知識がない方が、新しい視点での発見ができることもあるから」
志摩はそう言って、つくしを座らせ、彼女に自分の研究概要を明かした。

口頭だけで説明し、相手に理解してもらうことにもスキルがいる。対して、つくしは途中からメモを取り始め、志摩の話を自分なりに整理し始めた。その行動を微笑ましく見つめながら、志摩は手詰まりになっている部分までを話し終えた。



「方法1~4ではいい成果が出なかった。…どう思う?」
本気で有用な意見を求めていたわけではない。つくしに説明をすることで、自分の考えを再構築する作業をしていたに過ぎない。
つくしの表情は真剣だった。ペン先を忙しく走らせ、難しい課題に必死に取り組んでいる様を見つめるのは楽しかった。
「…怒らないで聞いてもらえます?」
「もちろん」

つくしの意見は専門知識の不足故の荒唐無稽なものもあれば、検討してみようと思えるような貴重なものもあった。
志摩は礼を述べた。
「参考にさせてもらう。牧野さんは研究者向きだと思う。院の進学は考えないの?」
「ありがとうございます。でも家計的に余裕がないので、進学は考えていません」
6年制の大学に通う学生にはありがちな経済事情だった。
「アルバイトの時間なので、これで失礼しますね」
家族のために購入したという珈琲豆の袋を抱えて、彼女は立ち上がった。
「いい結果が出たら、今日のお礼に珈琲を奢らせて」
志摩が笑うと、つくしも笑った。
「実験うまくいくといいですね。応援してます。それでは…」




その時期、志摩は長くスランプ状態にあった。
博士課程1年では優秀な成果をいくつも叩き出し、同学年の誰よりも早く、インパクトファクターの高いジャーナルに論文掲載が認められた。
だが博士課程2年になると、前期では1本の論文がアクセプトされたものの、後期に入ってからは何度送ってもリジェクトされることが続いた。
自分でも不受理の理由は分かっている。内容に目新しさがないのだ。

研究者ならではの深い苦悩の中にあって、つくしとの出会いは新鮮だった。彼女の眼差しには、自分への尊敬の念と気遣いとが実直に表れ、志摩に好感を抱かせた。



志摩には博士課程進学のタイミングで結婚した女性がいた。
ともに名古屋出身で、同い年の妻とは大学時代からの付き合いだった。
どうしても研究者になりたい、その研究に先鋭的な東京の大学院に進学して博士号を取得したい、と志摩が希望を言えば、先に4年制大学を卒業し、名古屋市内に就職していた彼女からは強い不満の声が上がった。

仕事は辞めたくない。東京へはついていけない。
あなたとは別れたくない。でもただ待つには4年は長すぎる。
彼女はそう言った。

志摩としても、博士号取得までの長期間、彼女を待たせることに申し訳なさがあった。戻ってくる頃には28歳で、それまでの過程を考えるとどこか現実味がなかった。
双方の希望が一致し、志摩が大学を卒業した春、彼らは入籍した。身内だけで簡単な式を済ませ、翌4月には上京し、新しい生活に身を投じた。
研究だけに没頭する学生生活は楽しかった。最初は何をしてもそれが当たり、次々に成果が表れた。自分の理論に誤りはなかった、と自信がつき、研究室内や学内での評価も右肩上がりで、そのことにどんどん気をよくしていった。



だが研究が行き詰まり、思うような結果が出なくなってくると、状況は一変した。
トライ&エラーの毎日。徒労だけが続く。
結果を出すように迫る周囲。
それに応えられない自分への苛立ち、焦燥、失望…。
挫折らしい挫折を味わってこなかった志摩にとっては初めての障壁で、それを乗り越えられないことに煩悶する日々が続いた。


志摩は、自分の苦しい胸の内を正直に妻に打ち明けた。
最初は彼女なりの言葉で懸命に励ましてくれていた妻も、その期間が長くなればなるほど、否定的な言葉を口にするようになっていった。

研究者は諦めて、名古屋に帰ってきたらどう?
獣医師としての就職先ならいくらでもあるわ。
離れて暮らすのはやっぱり寂しいし、私もその方が嬉しい。

そうじゃない、と志摩は言いたかった。
自分は研究者になりたいのだ。
伝染病ウイルスの研究をし、それを駆逐するための手法、あるいは予防のワクチンを開発したい。多くの動物達の命を救いたいし、獣医学界に大きく貢献したいのだ。

それだけの技量も頭脳もない、と言われてしまえばそれまでだった。
妻はそれを明確に言い表したわけではなかったが、そう匂わせるような発言をすることもあった。専門外の彼女に自分のやりがいへの理解を求めることに、志摩は徐々に疲弊していった。
悩みを打ち明けることをやめると、それ以外に話題は見出せず、妻との会話の時間は次第に減った。描くビジョンの違いに、愛情の目減りを感じずにはいられなかった。




珈琲店でつくしと話をしてから1週間後、志摩は学生食堂で彼女の姿を見かけた。彼女は学食を食べる友人の横で弁当を広げ、楽しそうに談笑していた。その様子を眩しいものを見るかのように、志摩は見つめ続けた。

―あの日のように、彼女と議論がしてみたい。
唐突にそんな希望が湧き上がる。

ふと、つくしがこちらに視線を振った。
これだけ長く見つめていれば気づかれて当然だろうと自分でも思い、気まずかった。互いに距離があったが、視線が交錯したことにつくしは驚きながらも、小さく会釈をした。戸惑ったような笑顔がとても可愛かった。



それからというもの、構内では彼女の姿を無意識に探すようになった。だが、目で追うだけで、見かけたとしても決して目は合わせないようにした。
妻のことを含めプライベートについては誰にも明かしていなかったし、大学院から入学してきた志摩の過去を知る者はここにはいなかった。
だが、つくしに対しての自分の行動が、決して褒められたことではないことは十分に自覚していた。


相変わらず珈琲店へは頻繁に足を運んだ。
息抜きの時間は1時間ほど。
実験はまだ行き詰まったままだったが、仮定を立て直し、手法を変えて取り組んでみるとわずかに芳しい結果に転じたように思えた。
それでもまだ光明は見えてこない。
「…はぁ…」
頬杖をつき、机の上に盛大なため息を落とすと、頭上から声がした。
「こんにちは」

顔を上げた視界の中に、前と同じように珈琲豆の入った袋を抱えたつくしがいた。
その姿を認めたとき、志摩ははっきりと自分の気持ちを自覚した。
それが妻帯者においては、抱くことの許されない感情であることは分かりきっていたが、もう止めようがないほどに彼女への気持ちは募り募っていた。
「いい結果はまだ出てないけど、今日は珈琲を奢るよ。…座って?」
そう言うと、つくしがはにかんで笑った。


―彼女が欲しい。


野蛮な願望が、膨れ上がっていく。






いつも拍手をありがとうございます。
志摩視点による二人の過去(前編)をお送りしました。
出会いの時点で、志摩26歳、つくし19歳です。

本日は同時刻に今後の更新についての記事もUPしております。
よろしければそちらもご覧くださいませ。
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2 Comments

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2019/05/12 (Sun) 22:31 | REPLY |   
nainai

nainai  

み様

こんばんは。コメントありがとうございます(*'▽')
丁寧に物語を追ってくださって嬉しい限りです。

結婚当初、志摩は妻のことを愛してはいたんですよね。ただ、困難に直面しながらも夢を追って奮闘する志摩と、理解を示すでも見守るでもなく、自分の都合を主張し始めた妻との間に大きな温度差が生じてしまったのです。研究者の道は本当に険しく、残っていけるのも一握りなので…。

そこに来て、つくしの登場。志摩はつくしにのめり込んでいきます。過去編の後編はそうした経緯を綴っていて、読む側にはちょっと辛い内容になるかと思います。あと1話、耐えてくだされば…。

エピローグまでの仮案がまとまりホッとしています。推敲&更新を頑張ります!

2019/05/13 (Mon) 01:21 | REPLY |   

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