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94.捻じれ

Category『Distance from you』 本編
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志摩は積極的につくしにアプローチをかけた。彼女からも自分への好意を感じていたし、動き始めてしまうともう歯止めのかからない自分がいた。

三度目のデートで自分の想いの丈を伝えた。
彼女の嬉しそうな笑顔が答えだった。
良心の呵責は感じていたが、志摩は一切を黙殺して、ただ、つくしとの限られた時間を愉しむことに全意識を集中させた。


それなりの女性経験を持つ志摩とは違い、つくしは志摩が初めての交際相手だった。年下の彼女は初心うぶで、一つ一つの反応が新鮮で、一緒に過ごしているとひどく安らげた。ほどなく二人の関係が引き返せないほど深まると、志摩にとって、つくしは他の何にも代え難い存在になっていった。
いつかは妻の存在が露見する。
そうなったときには明確な別離が待っている。
それが分かっていながら、志摩はつくしを深く愛した。


出会うのが妻より先だったら。
あのとき、結婚を思いとどまっていたら。
何度もそう思った。…だが、現実は現実だった。


私生活での苦悩とは裏腹に、なぜか研究の方は上手く歯車が回り始めた。新たな手法の可能性に気が付くと、仮説と実験結果とがすべて一致するという劇的な展開が彼を待っていた。その成果を纏め上げた論文はレベルの高いジャーナルにアクセプトされ、志摩は再び周囲の耳目を集めるようになった。

志摩はつくしの前では決して弱音を吐かなかった。常に前向きな発言で自分を鼓舞し、将来の展望を熱く語り、心根の強さを彼女に示し続けた。彼女には弱さを許されることより、強さこそを認められたかった。
可笑しなことだが、ある意味で虚飾だったのだとしても、その不屈であろうとする精神が研究においては奏功したのかもしれない。活路は唐突に出現した。だとしたら、上手くいったことのすべてはつくしのおかげだと思えた。
“自信家で野心家”。
そのスタンスを貫きながら、この充実した時間がいつまでも続いてほしいと密やかに願ってやまなかった。



―だが、ある日、恐れていた事態が起きる。



博士課程3年の6月上旬、事前連絡もなく妻が上京してきた。
定期連絡が途絶えがちになっていたことや、GWに帰省しなかったことを不審がられたのかもしれなかった。
その頃になると、つくしとの逢瀬の場所は自分の部屋が主になっていたが、彼女の私物は置かなかったし、部屋にいた痕跡を残さないよう細心の注意を払ってはいた。それでも、彼女と濃密な時間を過ごしてきた部屋に妻を迎え入れることには、耐え難いほどの疚しさと抵抗感があった。

帰省できなかったことの罪滅ぼしという名目で、妻と二人で都内に出かけた。妻の望む通りのデートコースで、ショッピングに付き合い、ディナーを楽しみ、夜景の綺麗なホテルの一室に泊まった。
その夜、求めに応じていつものように妻を抱いたが、心はひどく乾いていた。妻といても考えるのは年若い恋人のことばかりで、とても婚姻関係を続けていける気がしなかった。何も知らない妻へは憐憫の情だけが募り、頭の片隅で別れを意識した。


ひた隠しにしてきた妻の存在をつくしに知られたのは、その翌日のことだ。
マンションに帰ってきた自分達の姿を、離れたところで彼女が見つめていることに志摩は気付いた。視線が交錯すると、身を翻してつくしはその場を走り去った。
何もかもかなぐり捨ててその後を追いたかったが、唐突に出くわした困難に狼狽し、そうはできなかった。




妻が名古屋に戻ってから2日後、事情を説明させてほしいとつくしを自室に呼び出した。彼女はひどく憔悴した様子だった。その瞳はまだ自分の見たものを信じられないと訴え、ここに来る前にも泣いていたことは明らかだった。
何もかも誤解だと彼女に弁明できたなら、どんなに良かっただろう。
志摩は彼女にとって残酷な事実を打ち明けた。
つくしは蒼白になり、震える手で口元を覆い、やがて静かに涙を流し始めた。
彼女は言った。「もう逢えない」と。


自分達の関係が不義に基づくものだと知ったときの、彼女の絶望が胸に刺さった。
純真無垢の具現のようなつくしが、非を正そうとすることは目に見えていた。
それでも別れを切り出した彼女の、その手を離すつもりはなかった。
見下げた男だと思われようと、狡い男だとどんなに詰られようと、彼女を失うことだけは耐えられそうになかった。


愛していると彼女を強く抱きしめ、妻とのことを清算するための時間が欲しいと言えば、彼女は激しく抗った。
妻とは別れるべきではない、とつくしは主張した。
まだ今なら引き返せる、お互いになかったことにしよう、と。
彼女の方がよほど冷静で、その言葉に従った方がいいことは自明の理なのに、志摩は結局自分の我を押し通した。つくしにも苦渋の選択を強いて自分の手を取らせ、秘密を共有させ、これまで通りの関係を続けさせた。



妻に別れを切り出そうとした矢先、思いがけない連絡が入る。
妊娠したことを知らせる妻からの電話だった。本当に嬉しい、と涙を混じらせながらの報告に何と応えたかはよく覚えていない。
不義を貫くことは許さない、という何らかの強大な力を感じずにはいられなかった。妻には言えないこと、つくしには言えないことが積み重なっていった。



2年間の研究成果を高く評価され、あと1本論文を書き上げ、それが学会および学内審査で認められれば、博士課程を1年繰り上げて修了できることが大学側から通達された。波乱に満ちた大学院生活の終わりは、名古屋への帰郷とつくしとの別れを意味した。
結果として、志摩は多くの革新的な業績を残し、博士号を取得した。3月には妻の出産が控え、4月からは母校で助教じょきょうとしての仕事が待っている。


つくしはその過程を誰よりも近くで見守り、理解し、息を潜めるようにして蜜月関係の終わりを待っていた。誰にも言えない秘密は、彼女を深く苦悩させるとともに、女性として美しく変貌させた。
あどけなさを残していた笑顔は、憂いを含んだ寂しげな微笑へ。
優しく自分を見つめてくれた漆黒の瞳は、暗く翳って心の奥を見せなくなった。
彼女をそんなふうに変えたのは自分なのに、それでも手離してやることができずに、会えば彼女を抱き、有限の愛を囁き続けた。



二度目の別れを切り出された夜、来るべき時が来たと分かっていても、どうしてもその現実を受け入れられなかった。
やがて、彼女は俺を忘れるだろう。
そして、俺ではない誰かを愛するようになるだろう。
自分を選んではくれなかった相手を、いつまでも愛し続ける義理などない。


分かっている。
解っている。
だが、今この瞬間も、俺はこんなにも深く愛しているのに…!


そう思うと耐えられなくなり、利己的な願望を抑えることができなかった。
彼女の体に自分の記憶を深く刻み付けたいと思った。
自分という存在を、これから先も決して忘れられないように。

涙は見えない振りをした。声は聞こえない振りをした。
夜中、意識を取り戻した彼女が、腕の中から抜け出したことには気づかなかった。




翌日、何度連絡しても、つくしはもう応じてくれなかった。
電話をかける。
メッセージを残す。
メールを送る。
何をしても、なしの礫だった。

どうあっても、彼女がマンションに戻ってくることはないように思えた。
『妻とは別れる。もう一度逢いたい。あの珈琲店で待つ。』
最後に送ったメッセージがそれだった。
やがて、電話は不通になった。


閉店の時刻まで彼女を待った。
つくしは来なかった。






いつも拍手をありがとうございます。二人の過去(後編)でした。
今夜はちょっとしんどいお話でしたよね。申し訳ございません。

つくしがなぜ不倫関係に甘んじたかの全貌でした。まさに黒歴史…。
若さゆえの素因も大きかったと思います。
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