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104.卯月の頃

Category『Distance from you』 本編
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「この仔で最後ですか?」
「あぁ」
つくしは竹井が差し出す仔豚を受け取り、素早く予防接種を済ませた。
2時間にも及ぶ作業が一段落し、つくしはふーっと大きくため息を吐いた。
注射器の細いピストンを押し続けた右手の親指が、驚くほど強張っている。腱鞘炎のようなその症状に、つくしは右手をそっと揉み解した。

管理獣医師の三嶋が今年に入って組み直したワクチンプログラムは、以前のものより複雑化している。つくしが竹井養豚場に呼び出される回数は増えていた。

「先生、お疲れ様! お茶を用意したので、どうぞ休憩室に」
竹井の妻の嘉子が近づいてきて、二人に声をかける。
「腰が痛ぇ。ちと休もうや」
「はい」
つくしは立ち上がり、竹井の後ろに続いた。


防護服を脱ぎ去り、休憩室の椅子に座る。一息にお茶を飲み干し、大きく息を吐くつくしに、竹井が笑いながら土産物の饅頭を差し出した。
「ま、ひとつ、饅頭でも」
「ありがとうございます」
つくしが包装を破る間に、竹井は自分の饅頭を口の中に放り込んだ。
白い薄皮の中は粒あんで、疲れた体に優しい甘さだ。
「…先生、ちょっと痩せたか? ちゃんと食ってるか?」
竹井が声のトーンを落としながら、つくしを気遣う。

このところ、つくしが周囲から何度となく掛けられている言葉だ。
だから、その質問に対する回答もパターン化していた。

「忙しいと、つい食べ損ねちゃって…。気をつけてはいるんですが」
「まだ若いんだから、もっとふっくらした方がいいわよ」
嘉子が追加の饅頭を差し出すのを、苦笑しながら受け取る。
長い冬の間につくしは体重を落としていた。削げ落ちていくのは上半身ばかりで、顎や鎖骨の部分にそれが表れて目立ちやすい。

「お前の贅肉をうまいこと分けてやれたらいいのになぁ」
ニヤついた夫の容赦ない突っ込みに、
「ほんとよぉ。そこの誰かさんのせいで蓄積した、この余分な肉をね~」
かかかっと豪快に笑いながら、嘉子が応じた。
つくしには竹井夫妻の大らかさが胸に温かく、そして羨ましかった。


「…あのな、ちょっと訊いてもいいか?」
「えぇ」
2個目の饅頭を食べ終え、つくしは頷く。
「ずいぶん前に先生が連れてきた男。…ありゃあ、今、テレビに出てる花沢の副社長だったのかい?」
「ちょっとお父さん!」
ストレートに質問した竹井を咎めるように、嘉子が鋭く叫んだ。
つくしは嘉子に微笑んで、次いで竹井に頷いて見せる。

花沢物産の代表交代のニュースは、連日ワイドショーで取り上げられている。
お家騒動だ、乗っ取りだと、実に楽しそうに騒ぎ立てながら。

「お気づきでしたか? 名前、よく覚えてましたね」
「嘉子がな。…俺はテレビ見て思い出したんだよ。どっかで見た顔だって」
「あの時はありがとうございました。彼の急な要望を聞き入れてもらって…」
つくしの仕事ぶりが見たい、養豚場を見学してみたいと、類がつくしについて来たのはもう5ヶ月も前のことだ。
あのときはまだ、類の好意を受け入れられず、つくしは彼の存在を恐れていた。
変われば変わるものだと思う。

つくしは笑顔を浮かべる。
それが作り物じみてなければいいと思いながら。

「今は騒ぎの渦中にあって、花沢さんは大変なんです」
「だろうな」
「…落ち着いたら、また、ここにも来たいって言うんじゃないかと思います。彼のことだから、きっと」
「手伝いとしてならいつでも歓迎だからな。…さて、作業の続きをするか」
「はい」

竹井がそこで話を打ち切ってくれたのが良かった。
つくしは頭の中を切り替えて、その後も予定通りにワクチン接種を続けた。



その帰り、嘉子からお手製の焼豚を土産に持たされた。
「お口に合うか分からないけど、しっかり食べて元気つけて!」
「ありがとうございます。これ、大好きなんです」
つくしが嬉しそうに受け取ると、嘉子が申し訳なさそうに言った。
「さっきはうちの人がごめんなさいね。…ホンッとバカで無神経なんだから」
「いえ、お気になさらないでください」

嘉子の瞳が優しく和む。
「先生、私達、何年の付き合いになるかね?」
「…えっと5年…いえ、もうすぐ6年ですね」
「最初は、なぁ~んてクールな女の子だろうと思った。その印象はずっと変わらなかったんだけど、今の先生はとても柔らかい表情をするようになったよ。それは花沢さんとの出会いがあったからかねぇ?」
「…………」
「あの日、花沢さんと一緒に作業しながら、先生の話をいろいろしたよ。…あんな綺麗な男の子に、真剣に話を聞かれるなんて経験、そうそうないから、もうオバサン緊張しまくっちゃって…」
つくしはくすっと笑みを洩らす。

「何もかもがうまくいくといいねぇ。私らは何の役にも立てないけど、それだけは祈ってるから」
嘉子の手がポンポンッと肩に触れる。優しい励ましに胸を打たれた。
「ありがとうございます、嘉子さん」
つくしの笑顔に、嘉子はまた大きく笑った。
「おーい、先生まだかー?」
つくしの車の出庫を待つ竹井の大声が、外から聞こえてきた。






いつも拍手をありがとうございます。
類と竹井夫妻の交流は、第15話『竹井養豚場』より。
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