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106.水無月の頃

Category『Distance from you』 本編
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ある火曜日の午後、オペの予約が少ない日を選び、つくしはヨモギとハコベの不妊手術を行った。各々の体重がオペに耐え得るほどに増え、1回目の発情期が近づいていたからだった。
2匹は姉妹であったが性格は全然違った。
ヨモギは好奇心旺盛でやんちゃ、ハコベは大人しくおっとりしている。
元気な2匹の体にメスを入れることには躊躇いもあったが、祖父もつくしも飼っている動物には必ず不妊処置を施すようにしてきたし、そこに例外はなかった。

3階のサンルームには、仔犬が新たに仲間入りをした。シロンの遊び相手になればと、つくしが保健所から引き取ってきた犬だった。
生後2ヶ月の柴犬の雄で、ギリシャ文字のαに因んで『アル』と名付けた。アルは生まれつき耳に障害があるようで、そのためにブリーダーから手離された仔犬だった。
耳が聞こえないことへは特別な配慮や躾が必要だったが、つくしはアルの特性に向き合い、大切に育てていくことを決めた。

シロンは自分のテリトリーの中に別の犬が入ってきても、特に警戒するでも歓迎するでもなくマイペースだった。他の猫達も同様の反応で、アルはここに住むことを皆に許されたらしかった。
アルは、丸っこい体躯とふさふさの毛並みがなんとも愛くるしい仔犬だった。尻尾を振りながら無邪気に甘えてくる様が、寂しさを抱えるつくしの心を慰めた。



その頃になると、昼休みの散歩は福重に同行してもらうようになっていた。
離れて警護してもらうより、いっそ一緒に行動した方がいいと双方で話し合って決めたことだった。アルのリードをつくしが、シロンのリードを福重が持ち、仲良く談笑する二人の姿は、周囲には友人か姉妹のように映っただろう。

何者かによるつくしの尾行は、花沢物産の騒動後は一度も起きていない。
花沢側からの接触もない。結局、アドレスの追跡は上手くいかなかったらしいが、ホームページへの書き込みもあの一度きりのことだった。
つくしの周囲から、見えない脅威は完全に去ったように思われた。
だが、本永と福重は、初めて会った頃と同じように、真摯な姿勢で職務を全うし続けてくれ、必要に応じてつくしの出先に同行してくれた。


福重が警戒していたのは、今をもって志摩の存在だった。
自分達の目を掻い潜り、つくしへの接触を図られた夜のことを、彼女は今でも悔いているのだという。責任感の強い彼女らしい発言だった。
「彼のその後に関する報告書もあります。…ご覧になりますか?」
福重の言葉に、つくしはゆるく首を振る。


志摩はもう自分の元へは現れない。
つくしには強い確信があった。
彼の最後の良心を、つくしは信じている。




仕事の方は相変わらず順調そのものだった。
連日、多くの人がひかわ動物病院を訪れ、つくしに診察や処置を求めた。

あるとき、一木美音がブランを連れて診察に訪れた。
「昨日から目やにがひどいんです。とても痒がっていて…」
ブランの左目には黄色い分泌物があり、周囲の皮膚もやや爛れていた。
つくしはブランを丁寧に観察し、触診した後で、
「他に所見がないので、おそらく結膜炎だと思います。目薬を出しておきますね。皮膚の炎症がひどくならないように、エリザベスカラーの装着を勧めますが、装具はお持ちですか?」
「はい。しばらく着けるようにしますね」
つくしはその返事に微笑み、ふと湧いてきた疑問を彼女に訊ねた。


「…そういえば、なかなか公園ではお会いしませんね?」
つくしの問いかけに、美音はふんわりと微笑んだ。その眼鏡のフレームの色が以前と違っていることに気付き、わずかな間、そこに目を留める。
「最近、勤めに出るようになりまして…」
「あぁ、それなら日中はお忙しいですよね」
「でも、先日の休みに先生を公園でお見掛けしたのですが、どなたかとご一緒のようだったのでご挨拶は控えたんです」
つくしも微笑む。
「新たに柴犬を飼い始めたので、友人に散歩を手伝ってもらっているんです。今度はブランも一緒に広場で遊びましょう」
「えぇ、ぜひ」
美音は深々と丁寧に一礼すると、ブランを入れたゲージを抱えて診察室を出ていった。


その後ろ姿を見つめながら、つくしは心の中で密やかに彼女に謝罪した。
美音については、過去、福重達にその素性を調べてもらったことがあった。
不安を払拭するためだったとはいえ、個人情報を無断で探るような真似をしたことは、ただただ申し訳なかった。

「先生、次の患者さん、入れてもいいですか?」
「あ、少しだけ待ってください」
由紀乃の問いかけに、つくしは止めていた手を動かし、ブランのカルテを急いで書き上げた。






いつも拍手をありがとうございます。
サンルームには新しく仔犬が仲間入りをしました。
つくしの日常は穏やかに、刻々と過ぎていきます。
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2 Comments

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2019/05/26 (Sun) 22:43 | REPLY |   
nainai

nainai  

み様

おはようございます。いつもコメントありがとうございます(*'▽')

1話1ヶ月で時間は進みます。つくしの日常は元々が多忙で、類がいない生活の方がベースにあるので、哀しいかな、待ったなしで流れていってしまうんですね。6月と言えば、類の方は、ちょうど耀が引き継ぎのために渡仏した頃です。類はいつ帰ってくるやら…。

み様の疑問はご尤もです。そういうリードで来ていましたから。後半のコメント部分、もうちょっとモヤモヤしていてくださると…。

推敲作業はサクサク進んでいて、最終話までは毎日更新できそうです! かつてないハイペースであたふたしてますが、最後までお楽しみくださいね。

2019/05/27 (Mon) 06:22 | REPLY |   

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