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108.葉月の頃

Category『Distance from you』 本編
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季節は盛夏へ。
連日の茹だるような暑さにも負けず、つくしは精力的に日々の業務をこなしていた。

リビングの壁に掛けたカレンダーの8月25日には、赤マジックで二重丸がしてある。すべての引継ぎを終え、類がいよいよ帰国することになったのだ。
8月末付けで、類は副社長の任を降り、花沢物産を退職する。
9月1日からは、土屋常務が類の後任として、西門総二郎が社外取締役として就任することになっている。


柴犬のアルは、心身ともにすくすくと成長していた。
その後、つくしが改めて聴覚検査をしてみると、アルは両耳が全く聴こえないわけではなく、左耳の聴覚はわずかに残っていることが分かった。それでもつくしの指示は通りにくかったし、不用意に体に触れたことでアルを驚かせ、怒らせてしまうことも多々あった。つくしは根気強くアルにアイコンタクトを教えた。
また、アルはシロン達と共同生活を送っていく内に、唐突に視界に入ってくる何かや、不意に体に触れる何かが、決して自分に害為すものばかりではないことを学んでいった。



盆休み前は特に急患が多く、忙しかった。だが、休み明けの週末は久しぶりにまとまった雨が降り、それが客足にも影響したのか、いつもより予約が少なかった。

その日、午前診療の最後の患者は、3歳のフェレットだった。
「風邪ですね。今のところ肺炎の症状はありません」
フェレットは体が小さいため環境変化に弱く、体調不良に陥りやすい。人間の風邪やインフルエンザにも、種を越えて感染してしまうリスクを持っていた。
一昨日から食欲がなく鼻水が出る、というフェレットを診察し、つくしがそう言えば、飼い主の若い女性はホッと安堵の息をついた。

「ご家族に、誰か体調の悪い方はいらっしゃいませんか?」
「…そういえば、盆休みに親戚がうちに来た際、この子と遊んだ親戚の子が咳をしていました」
「抗生剤を出しておきます。しばらく栄養価の高い食事に切り替えてください。フェレットの風邪もご家族にうつる可能性がありますので、みなさんで予防に努めてくださいね」
「はい」


カルテを急いで入力し終えると、つくしは受付にいるミチ子に声をかけた。
「会計お願いします。午前はこれで終わりですね?」
もうパソコン上に次の患者は表示されていなかった。

すると、ミチ子は意味ありげな表情を浮かべて振り返った。
つくしは怪訝そうに相手を見返す。
その瞳がわずかに潤んでいるように見え、どうしたのかを問いかけようとした瞬間、ミチ子は言った。…何かを堪えるようにして。


「先生。…患者さんは終わりですけど、お客様がお見えですよ」


―お客様?


ミチ子がそういう言い方をするときは、決まって特定の人物の来院があった。
“土曜日の彼”。
由紀乃が命名したフレーズが脳裏を過る。


―まさか。でも…。


驚きで動けなくなってしまったつくしの代わりに、由紀乃が待合室の様子をそっと窺う。瞬間、その表情が一変した。
フェレットの飼い主の女性とミチ子が会計のやり取りをする声がして間もなく、由紀乃が診察室のドアをゆっくりスライドさせた。
「…先生、ご面会ですよ」



スーツ姿の彼が診察室に入ってきた。
大きな花束とともに。



「………っ」
その名を呼ぼうと思うのに、のどが詰まったようになって声が出ない。


来週だって言っていたのに。
空港まで迎えに行くと言ったのに。
最後に会った日だってそうだった。何の連絡もなくうちに来て。
どうして、この人はいつも、こちらの意表をつくことばかりしたがるんだろう。


「今日はお願いがあって参りました」
彼の唇が言葉を紡ぐ。
その柔らかな微笑を見つめながら、つくしは思った。
すごく、痩せた。
顔色も良くない。
この半年間の彼の苦労がありありとそこに滲み出ていた。


「…お願いって…何ですか…?」
ようやく絞り出せた声は、自分でも笑えるくらいの声量だった。
熱い何かが、とめどなく体の奥から噴き出して、つくしの体を震わせる。


―逢いたかった。…やっと逢えた。


人は嬉しさや喜びが高じ過ぎると、こんなふうに、木偶でくみたいに、何もできなくなってしまうんだと初めて知った。


類は、つくしに花束を差し出した。何本あるか分からないほどたくさんの白薔薇のその花弁が、雨雫にわずかに濡れて艶やかに光っていた。
「俺と結婚してください」
彼の求愛はこの上なくシンプルで。
「はい…」
花束を受け取ったつくしの答えもまた、同様だった。


「…類っ!」


バサッと音を立てて花束が落ちる。
その音も耳に入らないほどの声で類を呼び、つくしは両腕を伸ばした。
類もそれに応え、つくしを抱きとめる。
「おかえりなさい…っ」
「…ただいま」


夢じゃない。
互いの存在を確かめるように、強く抱き合う。


…だが、そのわずか数秒後、つくしはあることに気づいた。


「…えっ?」
触れ合わせた類の頬が、驚くほど熱い。
プロポーズの甘い空気はどこへやら、彼女は即座に医師の顔に戻る。
「もしかして、具合悪いの!?」
見上げた相手は申し訳なさそうに苦笑する。
つくしが掌を彼の額に当てると、明らかにその内には熱がこもっていた。
「……っ! 熱があるじゃない!」
「…やっぱり? 自分でもちょっと体が変だなって思ってた…」

―でも、一秒でも早く、つくしに逢いたかったんだ…。

「もうっ!」
つくしの瞳に涙が滲む。
みるみるうちに視界が歪んでいく。
今日この時まで堪えてきたものが溢れだし、つくしの感情を千々に乱した。


「なんでだろ…。つくしの前では格好悪いよね、俺」
「そんなことない! カッコ悪く、なんか…っ」
「一生に一度のシチュエーションだったのにさ」
「…うっ…」
ついには本格的に泣き出してしまったつくしを両腕で抱き寄せ、類は心から嬉しそうに笑った。



そのやり取りを、診察室の外からこっそりと見守っていたミチ子と由紀乃は、顔を見合わせてクスッと笑った。そして、いつ声をかけるべきかと、互いを肘で小突き合いながら、そのタイミングが来るのを待ち続けた。






いつも拍手をありがとうございます。

再会は葉月の頃でした。
もうすぐ二人が出会って1年、というタイミングでのプロポーズです。
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6 Comments

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2019/05/28 (Tue) 22:14 | REPLY |   

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2019/05/28 (Tue) 22:55 | REPLY |   

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2019/05/29 (Wed) 00:36 | REPLY |   
nainai

nainai  

ま様

おはようございます。コメントありがとうございます(*'ω'*)
更新を楽しみにしていただいているとのこと、恐縮です。悩みに悩んだ末、二人の再会シーンはあのようにしました。類の懸命さが伝わればいいな、と。素敵だと仰っていただけて自信がつきました!

こっそりながら、私もま様のお宅にお邪魔させていただいております。ご家庭のこともあり、毎日何かと大変だと思いますがご無理をなさらずに。暑さの厳しい夏になりそうですので、ご自愛くださいませ。

2019/05/29 (Wed) 06:16 | REPLY |   
nainai

nainai  

m様

おはようございます。コメントありがとうございます(*^^)v

やっとやっとの再会シーンでした! ここまで長かったですよねぇ…。
一生に一度のプロポーズ、二人の心にいつまでも残っていくと思います。

今作では、“離れている間にこそ強まっていく絆”を意識して展開していきました。遠距離恋愛もようやく終了。結婚前提の交際ではありましたが、世間的にはスピード婚の二人です。
これからの二人の関係も丁寧に描いていくつもりです。最後までお楽しみいただければ幸いです。

2019/05/29 (Wed) 06:20 | REPLY |   
nainai

nainai  

ゆ様

おはようございます。コメントありがとうございます(*´ω`*)

待ちわびた再会、ミチ子と由紀乃にも見届けてもらいました。つくしの前にいるときの類は本当に真っ直ぐです。『一秒でも早く逢いたい』という辺りがとくに…。
白薔薇の花言葉を調べて、類はこれだな、と。そこをご指摘くださって、ゆ様はさすがだと思いました!

連載はこれからの二人の生活を描きつつ、もう少し続きます。
最後までお楽しみいただければ幸いです。

2019/05/29 (Wed) 06:30 | REPLY |   

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