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121.心の処方箋

Category『Distance from you』 本編
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つくしは、悄然と項垂れた紗穂にそっと話しかけた。
声には芯があり、優しさと労りとが満ちている。
いつも診察室に響いている、獣医師の彼女の声だった。


「米代さん、これからいくつか質問をします。あなたの質問へ回答するために知っておきたいことです。でも答えたくない質問には無理に答えなくてもいいです。始めてもいいでしょうか」
紗穂はこくりと頷いた。


「今回の相談内容を纏めます。今の自分を変えたい。そのためにどうしたらいいか、ということでよろしいでしょうか」
「…はい」

「ブランを大切に思っていますか?」
「はい」

「お子さんを、愛していますか?」
「…はい」

「ご主人を、愛していますか?」
「……………」

「ご実家に戻りたいと思いますか?」
「……………」



「質問を変えます。働いた経験がありますか?」
「…いいえ」

「一般的な家事ができますか? 料理、掃除、洗濯などです」
「身の回りのことは使用人がしていました。今も、幼少時からの使用人が一人、私に付き添ってくれています。…料理は教養の一環で習ったので一通りは出来ますが、他のことはやったことがないので分かりません」



つくしは他にも質問を続けながら、手元の紙に紗穂の回答をメモ書きしていく。紗穂はいくつかの質問を除いて丁寧に回答した。
それらが終了してつくしが熟考に入ってしまうと、審判を待つような面持ちで紗穂は女医を見つめ続けた。


やがて、つくしは一つの結論を導き出し、おもむろに口を開いた。


「これから、私はあなたにある提案をします。これまでの話を総合して自分だったらどうするか、という視点で考えました。反論や異論はもちろん出るでしょうが、まずは最後まで聞いていただけますか?」
「……はい」
つくしは紗穂の返事を待ち、次のように話を切り出した。




「私は米代さんに自立生活を勧めます。
あなた自身の力で、自分の人生を生きてみませんか?

これまでのお話の中で、強く印象的だったことがあります。それは、米代さんが多くの事象に対して、常に受動的であったということです。人生の岐路において自分だけで何かを決める、という経験が圧倒的に少ないように感じました。

しかし、それはあなたが悪いわけではありません。これまでの生育環境によるものだと思います。かつては類もそうでした。自由意思の通用しない世界というものは確かに存在するのだと、改めて思い知らされた気持ちでいます。

ご両親の教育は、あなたにとって絶対的な戒律でしたよね。各家庭の方針もありますが、教育というものは言い換えてみれば、ある種の洗脳と似ていると私は思います。
人としての在り方は実は多種多様で、明確な正解というものはありません。ですから、ご両親の考え方が誤りだと断じているわけではないことはご了承ください。

一個人の在り方は、社会に出て初めて、自分の中の価値基準が一般的なのかどうかの現実を知り、経験を踏まえながらカスタマイズしていくものだと思っています。つまり、常に可変的であるということです。
米代さんが、現状に対して、自分ではない誰かや何かに強い不満を抱いてしまうのは、元来の受動的な姿勢が少なからず影響していると思います。
ですから、新しい生き方を模索するのであれば、まずはこの意識から改変していく必要があると思いました。


米代さんが自立するために、まずご主人と離婚することをお勧めします。愛人がいることが容認される夫婦間には、一番大切な信頼関係が存在しません。ご主人の不貞を理由にお子さんの親権は主張できるはずです。
両親の不和は必ず子供に伝わります。そして子供というものは、親の笑顔を望んでくれる幼気で尊い存在です。

離婚に際してはお母様の強い反対にあうかもしれません。ですから、ご実家とはあえて距離を置きましょう。すでにお母様以外とは交流が絶えているようですが、そうした縁やしがらみのすべてを手離す気持ちでいましょう。
大事なのは、家族からの評価ではありません。そして、家族だからといって、必ずしも分かり合えるものでもありません。
米代さんが一人の女性としてしっかり生きていけるようになれば、少なくともお母様だけはその意義深さを分かってくださると思います。


母一人、子一人、そして犬一匹。この家族の形態は珍しいようでそうでもありません。世間を見渡してみれば、実に様々な家庭があります。
そして自立するためには働くことが必須です。仕事と並行して、家事も子育てもすべてをこなしていかなければなりません。日常においても大なり小なり様々な選択が必要になってきます。たくさんのトライ&エラーを経験するでしょう。一喜一憂を経験するでしょう。
ですが、そこに自分の意志や決断があってこそ、『生きる』ということなのではないかと私は思うのです。

米代さんにとって、市井しせいの暮らしはつらく苦しいものに感じられるかもしれません。これまでとは異なる価値観の中で暮らすんですから。ですが、決して実現不可能なことではないと思います。

つらくなったら、ここへ来てください。いつでも相談相手になります。困っていることがあれば、解決策を一緒に考えます。ですが、最終的に決めるのは米代さんであり、私にできることはあくまでも補助です。自分と自分の守るべきものを主体に生きていくことを第一に考えてください。



あなたにとって軽蔑すべき対象である私が、何を偉そうにと思われたかもしれません。ご指摘の通り、私は過去に、ある男性と不適切な関係を結びました。どんな事情があったにせよ、許されることではなかったと今でもそう思っています。しかし、どんなに悔いても過去は変わりません。事実として、ただ、そこにあるだけです。

相手方に謝罪することが叶わない以上、私にできる贖罪とは何なのか、常に自分自身に問いかけながらこの10年を生きてきました。
私は獣医師の道を貫き通すことを改めて誓いました。命と向き合い、一つでも多くの命を救い、誰かの笑顔のためだけに生きよう、と。偽善的だと思われるかもしれませんが、社会貢献をする以外に、私にはどのような方法も思いつかなかったのです。


その道の半ば、思いがけず類と巡り会いました。出会いは本当に偶然でした。
私と同様に、類も、ある種の生きづらさを抱えながら生きていました。私達はお互いの過去を明かし、許し合い、様々な出来事を経て夫婦となりました。私は類を、類は私を、他の何にも代えがたい存在として捉えています。


ですから、今の類が、今のあなたにどのような言葉を伝えたいのかも、私は分かっているつもりです。
…類。そこにいるでしょう?」


つくしは言葉を切り、奥の部屋へと続くドアに顔を向けて声を発した。
紗穂が小さく息を呑むのが分かった。






いつも拍手をありがとうございます。
つくしは、紗穂の今後の生き方というrecipe処方を書きました。
これから、類と紗穂の対面を描きます。
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2 Comments

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2019/06/10 (Mon) 22:51 | REPLY |   
nainai

nainai  

ル様

こんばんは。コメントありがとうございます(*^^)v

つくしの言葉に共感していただけたようでとても嬉しいです。『心の処方箋』は執筆に1週間かかった山場でありました。ル様の心に留め置いていただけるフレーズがあるとすれば作家冥利に尽きるというものです。

可変的である今後の生き方とは違って、過去は不変なるものだとつくしは説きます。紗穂の不遇に一定の理解を示しながらも、新しい生き方を示し、彼女を支えることを約束します。本当に彼女らしい回答になったと思います。

次は類が頑張る番です。見守っていてくださいね。

2019/06/11 (Tue) 00:53 | REPLY |   

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