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122.悔恨

Category『Distance from you』 本編
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薄いドア一枚を隔てた向こうでは、類の想像しえなかった展開が繰り広げられていた。最愛の妻が対峙していたのは、自分の元婚約者だった。

あの紗穂がいる。
約6年前、自分との不協和により心を病み、道を分かつことになった彼女が。


彼女の独白を、類は全神経を集中させて聞いた。
耳にしたのは彼女の結婚の下りからだった。

婚約解消から1年後、彼女が中條家の遠縁に嫁いだことは噂に聞いて知っていた。だが、それがどのような相手で、彼女がどのような思いで日々を暮らしていたかについては、追って調べることもしなかった。
一言で言えば、当時の類にとって、紗穂との間に起きたことはすでに過去の出来事だったからだ。紗穂への申し訳なさを感じつつもそれはどこか他人事で、彼女の痛みを、生きづらさを、苦しみを、類は何一つ分かってやろうとしていなかった。


あきらに過去の怨恨を問われたとき、本当にその時になって初めて、類は彼女のことを思い出した。紗穂ならば、自分を恨み、憎んでいるかもしれないと。それでも、ここまでの執着は想定していなかった。
紗穂の過去が明らかになるにつれ、類は自身の浅慮を深く悔いた。
彼女の心の傷はあまりに深かった。新たな生活の中では、傷は癒えるどころか、むしろその深度を増すばかりだったことも分かる。



紗穂に申し訳ない。心からそう思えた。



「一人でいると、悪い考えばかりが頭に浮かびます。人知れず消えてしまいたいと思ったり、類さんを苦しめるために先生を傷つけたいという衝動に駆られたりします」

紗穂が自死あるいは自傷の可能性を、同様に、つくしへの傷害行為の可能性を仄めかしたとき、類の緊張は最大限に高まっていた。彼女がこの場に凶器を持ち込んでいる可能性を危惧したのだ。
つくし自身がどれほど彼女を警戒しているのかは分からない。だからこそ、隔たりのある目の前の状況が恐ろしくて仕方なかった。


だが、それも杞憂に終わる。


紗穂が望んだのは雪辱ではなく、救済だった。
つくしはそのことに戸惑っただろう。
それでも類には、なぜ紗穂が敵視する対象であるつくしに救済を求めたのかが分かる気がした。


つくしならば、理解してくれる。
他の誰が理解してくれなくても、彼女だけは。
身の内に巣食う苦しみを、人としての脆さを、…そして犯した罪を。


―分かるよ。俺もそうだったんだ。
―この人なら、とあんたも感じたんだろう。


結果として、つくしは紗穂の要望に応えた。彼女の話を整理し、何が問題なのかを浮き彫りにして指摘し、その後の生き方を示してみせた。

『自立して生きていくこと』

正直なところ、それが紗穂にとっては実にハードルの高い目標であることはすぐ分かった。これまで、自分のためにかしずく誰かがいて、生きるために必要な何かはその誰かが率先して行い、親や夫の大きな庇護のもとに日々を暮らしてきた彼女には、自立以前に知らなくてはならないことがあまりに多すぎる。


類がつくしと暮らし始めて思い知ったことは、いかに自分が世の中のマイノリティーであるかという事実だった。自分にとっての“当たり前”は、大多数の“当たり前”と往々にしてかけ離れていた。
類は長く一人暮らしをしていたが、住環境を清潔に保っていくための作業はすべて使用人が担当した。自炊も必要に迫られなかった。他人の手を借りながら過不足なく暮らしていたが、それが自立と同義であるはずがなかった。

日々を暮らしていくための何気ないルールを、つくしに一つずつ教わりながら、類は世間と自分との隔たりを徐々に埋めていき、今こうしてここに在る。煩雑で退屈な家事のルーティンも、つくしと一緒なら楽しくこなせた。


価値観や考え方のカスタマイズは、つくしが思うよりもずっと難解だ。
類達のような特殊な生育環境の人間にとっては。
だが、決して実現不可能なことではない。紗穂が真にそれを望むのであれば、自分はその環境を整え、道筋を示し、支えてやることができる。
これまでの経験を踏まえ、類にはそう思えた。


つくしが、類を語る。
「私は類を、類は私を、他の何にも代えがたい存在として捉えています。…ですから、今の類が、今のあなたにどのような言葉を伝えたいのかも、私は分かっているつもりです」
妻は、この土壇場にあって、実に冷静だった。
そのことをひどく誇らしく思う。

「…類。そこにいるでしょう?」
つくしに呼びかけられ、類は意を決し、スライドドアの持ち手を横に引いた。
自分を穏やかに見つめるつくしと目線を交わし、小さく頷いて見せる。
そして、その背後で息を呑み、強張った表情で自分を凝視する紗穂と目を合わせた。紗穂の瞳は不穏に揺らいでいて、複雑に入り混じった感情を顕わにしていた。
実に、数年を経ての再会だった。


紗穂に、伝えたい言葉がたくさんある。
あの日、最後に話したときも、確かに自分は彼女に対し、真摯に謝罪したつもりでいた。自分の不明を詫び、彼女を深く傷つけたことを詫びた。
だが、不十分だった。
最終的には、自分を許してくれた彼女の優しさに甘えてしまっていたー。


「もう一度だけ、彼の話を聞いてもらえますか? …私は席を外しますから」
つくしが紗穂に深々と頭を下げ、静かに立ち上がる。
類は、つくしが紗穂から離れてくれたことに安堵した。
これで少なくとも、つくしの身に及ぶかもしれない危険は確実に回避できたからだ。
すれ違いざま、つくしは類に微笑んだ。


あなたの気持ちを、きちんと言葉にして伝えて。
大丈夫。今の類ならできるよ。


そう、彼女から励まされたような気がした。






いつも拍手をありがとうございます。
当時、類と紗穂の間には確かに和解が成立したはずでした。しかし、相手を許したいと思うことと、実際に許せることはイコールしない場合があります。紗穂の人生の転機が、類との婚約解消だったことは紛れもない事実ですし…。
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2 Comments

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2019/06/12 (Wed) 10:52 | REPLY |   
nainai

nainai  

ふ様

こんばんは。コメントありがとうございます(*'▽')
身に余るお言葉の数々、とても嬉しいです!

登場人物達は、各々が色々なことを考えながら動いていますよね。大事に思うもの、守りたいものもそれぞれ違います。その心情を追うことは手間暇かかる工程ですが、人物の背景を掘り下げることで得られる臨場感が私は好きです。だから、このようにお話が長くなるのですが…(;^ω^)

今夜は類と紗穂の対話です。本作もいよいよ終わりが見えてきました。最後まで楽しんでいただければと思います。

2019/06/12 (Wed) 20:49 | REPLY |   

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