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136.父と子

Category『Distance from you』 本編
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その日、ミュンヘン中心街の国際ホテルの大ホールでは、ある研究機関の開発した抗癌剤のプレゼンテーションが行われていた。研究チームのトップであるエンゲルス博士の発表が終わると、場内は割れんばかりの拍手に包まれた。


『この度は誠におめでとうございます』
『臨床試験では素晴らしい結果が出ましたね。御社の新薬は広く世界の医療現場に普及していくことでしょう』

多くの祝辞と賛辞に囲まれ、“彼”は普段は見せぬ微笑を浮かべながらそれに応えていく。今回の新薬開発のために費やした期間は18年。巨額の研究費も投じられている。それでも、疾病克服のためにはどうしても必要な研究だった。


華やかな夜会が終わりに近づく。
彼は、ふと、人垣の間から自分を真っ直ぐに見つめる双眸に気づいた。


―栞…!


いや、妻であるはずがない。
27歳という若さで夭折した彼女の、その面差しを受け継いだのはただ一人。
彼女と自分の血を受け継ぐ総領。


―類。


統はすべての動きを止め、微笑を浮かべて立っている類を凝視した。
数年ぶりに会う息子の纏う、泰然とした空気に戸惑う。


―なぜ、ミュンヘンここにいる。


傍らに立つ統の秘書、酒本も、統の視線を追って類の存在に気付いた。
そして、いち早く動揺を鎮めると統に近づき、そっと耳打ちをした。統が酒本の提言に頷くと、彼は心得たように一歩下がり、会場の外へと姿を消した。

統は、類に酒本の消えた方向を示した。彼は無言で頷くと、そちらの方へと足を向けた。意図は通じたらしかった。



主要な賓客を見送ってしまうと、後を他の役員に任せ、統は酒本の準備した部屋へと足を運んだ。入口の脇には酒本が立ち、統の姿を認めると恭しく一礼をした。
「類様はこちらの部屋でお待ちです」
酒本に同席の必要性を問われると首を振り、統はノックをし、返答を待たずにドアノブに手をかけた。無言のまま入室した統を、類も無言で迎え入れる。
彼の前のローテーブルにはティーカップが置かれていたが、彼がそれに口をした様子はなかった。

類はチャコールグレーのスーツに身を包んでいた。色素の薄い髪と瞳は、亡くなった妻を彷彿とさせる。最後に会った日とまるで変わらない彼の容貌に、流れてきたはずの年月を錯覚してしまう。
…いや、あの時と異なるのは、自分を見つめる彼の眼差しの穏やかなこと。


「…そちらから訪ねてもらえるとは思っていなかった」
統は率直な感想を述べた。
「この度はおめでとうございます」
対して、類は儀礼的な祝辞をまず口にした。
そして、間を置かずに、最初の質問を投げかける。
「いつからだったんです? あなたにこのビジョンが見えていたのは…」
統がそれに応えずにいると、類がさらに言い募る。
「一生に一度、今日、この日だけでいいです。本音で話してもらえませんか」



長い沈黙があった。
やがて、統は静かに破顔した。

「…いいだろう。今夜は……特別な夜だからな」
そして、統は語り始める。



「栞が最初に不調を訴えたのは、妊娠5ヶ月の頃だった。頭痛や目のかすみを頻繁に訴えるようになった。原因ははっきりせず、念のため精密検査を受けさせると重篤な病が判明した。極めて症例の少ない、悪性の脳腫瘍だと。

医師は、栞の延命を考えるならすぐにでも治療を始めた方がいいと言った。中絶手術はギリギリ可能だった。私は子供をあきらめようと言い、彼女は嫌だと言った。おそらく自分が遺せる唯一の子供になると言われ、最終的に妊娠の継続を優先した。

胎児が2,000gになるまで待って帝王切開をし、それからすぐ脳外科手術に踏み切った。当時の医療水準でありとあらゆる治療の可能性を模索し、実施した。だが、栞の予後は不良だった。それでも彼女は過去の症例に比して、長く生きられた方だった。出産から2年半後、27歳でその生涯を閉じた」


類は多津子から母の死の真相を聞き、花沢家に長く仕えた使用人頭の松川を訪ねていた。彼女から聞いていた母の死までの経緯と、統の話はすべてが合致した。統の話が偽りのないものだと確証を得る。


「栞との結婚は早くから親同士が決めたものだった。私の、栞の、自由意思はそこに含まれなかった。だから私達の間に特別な感情はなく、子を成したことも家督継承のための義務的なものであって、それ以上でもそれ以下でもなかった。…栞の病気が判明するまでは。

栞は己の病気を知り、その5年生存率が数%未満であることを認識したとき、命運を悟ったそうだ。優先すべきは自分ではなく、これからを生きる子供……類であると主張し、頑として中絶を受け入れなかった。

そして私に言った。残念だ、と。もっと貴方と過ごす時間が欲しかった。形式だけの夫婦ではあるけれど、時間をかけてそうした固定概念を変えていきたかった。貴方は知らないだろうけれど、私にはその自信があったのに、と。

まさにその時だったと思う。私の中で、栞が特別な存在へと変わったのは。
確かな有限を示されて初めて、私達は互いを認識し合い、本当の意味で夫婦になれたのだと今では思う」






いつも拍手をありがとうございます。
ようやく、統が自分の言葉で過去を語ります。
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