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糸の証 ~3~

Category『糸の証』
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つくしとの結婚生活は穏やかな愛に満ちている。
やっと俺のものにできた手中の珠。もう二度と手離すつもりはない。


俺達が結婚に至るまでの経緯は、やや特殊と言えると思う。

英徳高校時代の交際期間はたった数ヶ月。
俺の卒業と渡仏を機に、つくしに別れを切り出された。
俺は音楽学校に進学するためにパリへ、つくしは家庭の事情から英徳を辞め仙台へ。
別れたくはなくても、俺達を取り巻く状況がそれを許さなかった。


プロのバイオリニストを目指した俺の数年間。弁護士を目指した彼女の数年間。
その間、一瞬たりとも交錯しあうことのなかった二人の道。
でも、それは互いが円熟するために必要な時間だったのだと今は思う。


その後、8年もの時を経て、俺達は再会する。
別れたあの日から色褪せることのなかった愛を、俺は彼女に告げた。


会いたかった。
どうしても忘れられなかった。
ずっと、ずっと、牧野だけを愛してきた。


彼女はそれを拒絶した。
クールな表情を崩さぬまま、すべてを過去のものにしようとしていた。
だが、信じていた。
彼女の心の奥には、今でも俺との思い出が息づいているはず。

必死だった。
俺を突き放そうとする彼女を抱きしめながら、ただ願った。
明るい未来を夢見たあの瞬間を、今こそ思い出して―。



長い沈黙があった。
逡巡の末に、彼女は決断してくれた。
再び、俺と同じ刻を生きることを。

『…あたしも類を愛してる。ずっと、ずっと、類の事が忘れられなかった』

つくしは涙ながらに本心を明かし、俺の背に腕を回した。
彼女が告げた愛の言葉を、俺は生涯忘れはしない。


彼女を想う愛の深さに溺れそうになり、
いつしか憎しみに似た感情すら抱くようになり、
こんなにも苦しいばかりなら、いっそすべて忘れてしまいたいと願うようになり、
それでもそうはできずに苦悩し続けた日々が、報われた瞬間だった。


俺達は互いの存在を確かめるように強く抱き合い、もう決して離れないと誓った。
今度こそ、永遠を約束したのだ。



それからの俺の行動は早かった。一刻の高揚から覚め、冷静さを取り戻したつくしが、別の選択肢に迷うことがないように。互いの両親への挨拶を早々に終え、住環境を整え、再会から10日後には婚姻届を提出した。

彼女を法的に俺の伴侶にできた日、帰り道に二人で見上げた初秋の空は美しかった。
澄みきった青の青さが、目に深く染み入ったのを覚えている。


そんなふうに性急に外堀を埋めてからも、俺の中にはまだ不安が燻り続けていた。
これは、本当に、現実の出来事なのか。
彼女に恋焦がれる余り、俺の妄想が生み出したイミテーションの世界ではないのか。

だが、不安と焦燥は、彼女との結婚生活の中でゆるやかに解かれていった。
つくしは、俺を、彼女の精一杯の愛情で包んでくれたから。
その言葉で。その笑顔で。…その温もりで。




俺は、バイオリニストとして、花沢物産と専属契約を結んでいる。
契約を持ち掛け、帰国を促してきたのは、俺の5歳上の従兄、花沢匡晃ただあきだった。

当時、俺は、パリを拠点とする交響楽団に籍を置いていた。首席指揮者を務めるフランツ・シュナイダー氏に才能を買われて入団し、大学卒業後はずっとそこで演奏技術を磨いてきた。人生で一番ストイックな時期だったと言える。
気が付けば、楽団内でソリストとして指名されるまでの実力になっていた。


『類、日本に戻ってこい。パリもいい加減飽きただろう。約束通り、花沢の顔として働いてくれ』


匡晃さんのその誘いがなければ、俺は今も日本の地を踏むことはなかったと思う。昔から俺の良き理解者であった彼の言葉は、積年の夢を叶えても尚、空虚なままだった俺の心の中にストンと落ち込み、深く浸透していった。

彼が花沢物産を継ぐことを了承してくれなければ、俺がバイオリニストの道を選ぶことはできなかった。幼少時から優秀でそれなりに野心的だった匡晃さんは、いまや副社長の座に登りつめ、時代の寵児として経済誌の紙面を華やかに飾るまでになった。適材適所という言葉は、まさに俺達の有り様を示していると思う。
その彼が俺の力を必要としているのなら、それを断る理由などなかった。


俺の仕事は、花沢物産の広報部によって調整されている。
マネージャーの役割は、有馬ありまはじめという中堅の社員が担当している。
有馬は、俺が花沢の人間だからと変に畏まることなく、言いたいことははっきり言う性格なのが好ましい。彼は、俺が仙台に拠点を置くことを良しとしてはいないが、俺の最優先事項を正しく理解してくれている。

すなわち、つくし側のフィールドを決して侵害しないこと。
それが守られるのであれば、例え公演日程がハードだろうと、仕事の集中度が高かろうと俺は構わなかった。


一ヶ月に二度は、東京で仕事がある。公演のため、遠方に出かけることもある。
つくしと暮らしてきた8ヶ月間のうち、4分の1くらいは外泊をしている。
東京を拠点にして活動した方が、様々な点において合理的なのは明らかだった。

それでも、俺は、俺の仕事のために東京に移りたいとは思わない。
つくしが、どのような覚悟で弁護士になったのかを知っているから。
彼女が懸命にこの地で築いてきた信頼関係と実績を軽んじたくないから。


俺が、バイオリニストであり続けること。
つくしが、弁護士であり続けること。


双方の仕事が偏りなく、等しく尊重されること。
それが俺の望むライフスタイルなんだ。






いつも拍手をありがとうございます。
第3話では類の心情をさらいながら、『樹海の糸』の補足説明をしています。
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