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糸の証 ~4~

Category『糸の証』
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仕事で家を空けがちな俺と、日によって帰宅が遅くなる彼女。
だからこそ、一緒に過ごせる時間はとても貴重だ。
生活時間を合わせるため、俺達は密に連絡を取り合う。日々の出来事を報告し合う。そうすることで、離れている時間の寂しさを埋める。


それぞれに忙しい俺達は、まだ子供を望まない。
…正しくは、望めない、かな。

弁護士として駆け出しのつくしは、仕事と俺との生活を成り立たせることに精いっぱいで、その余裕がない。
それが分かっていて、彼女にこれ以上の無理を強いたくなかった。


子供は欲しい。すぐでなくても、いつかは。
きっと彼女もそう思ってくれている。だから、とりあえず今はこれでいいんだ。


世の中には、“普通なら”という見えない価値基準が存在する。
それに基づいた、俺達夫婦に対する様々な意見があることは知っている。
でも、あらゆる面で普通とは少し違っている俺達だから。
双方が無理をしないことを前提に、互いの人生設計を擦り合わせていけばいいのだと思う。つくしにも常々そう言っているし、彼女も俺の方針を理解してくれている。




「今度は中学生の女の子の案件を担当することになったの。刑事じゃなくて民事だけどね」
個人の情報についてはもちろん守秘義務があるから、彼女が事件の詳細を述べることはない。海藤弁護士事務所で扱う案件では、新聞に載るようなものは多くない。
だから彼女がアウトラインを話したとして、それが誰の事なのか、俺に分かるはずもなかった。
「中学生同士の諍いでも、訴訟になるんだね」
「民事は原告の主張次第だから。できれば、示談で収めたいところなんだけど…」

小さくため息をついたつくしは物憂げだった。
目が合うと、ふと何かを思い出したように言葉を継ぐ。

「…そういえば、その子、類のファンなの」
「え?」
「最初に言われたの。“Ruiの奥さんなの? 会わせてもらえる?”って」
「断ったの?」
「もちろん。公私混同したくないから」
応える口調はきっぱりとしている。
「ピアノは亡くなったお母さんの影響で始めたみたい。コンクールで優勝するほどの腕前だったけど、もうやめてしまったんですって。でも、クラシックには精通しているんだと思う」
「…へぇ」


…なんだろう。
今、心に引っかかるものがあった。
このエピソードに何かしら覚えがあるような…。

だが、その既視感の正体を探る間もなく、俺の携帯電話が小さく振動し始めた。
つくしに一言断ってから応答すると電話は有馬からで、月末に行う仙台公演に関する連絡事項だった。



今年に入ってから、俺は初めてのリサイタルツアーを行っている。
巡るのは東京を含む8都市。仙台は4ヶ所目の開催地となる。
他の都市はバイオリンのみの独奏会だが、仙台だけは新たな試みとして、バイオリンとピアノによるデュオ・コンサートを行うことにしている。俺が仙台在住であること、相手のピアニストがこちらの都合に合わせた調整をしてくれることから実現可能となった。

共演するのは、メラニー・ロベール。
フランス人ピアニストで、俺の2歳年上。愛称はメル。
彼女とは同時期、パリの交響楽団に所属していた縁がある。メルが独立してからもそれなりに親交があったが、昨秋帰国してからは特に連絡を取り合うこともなかった。

メルが契約している音楽会社から、花沢本社に共演の打診があったのは昨年12月のこと。ツアーで巡る7都市のソロ公演については、すでにチケット販売が終了していた。先方との話し合いの結果、5月末の仙台公演を決めた。この追加公演のチケットも即日完売だったという。

メルは日本でもソロ公演を行った経験があり、知名度は高い。
実力は申し分なく、二重奏という形式での表現に興味もある。
…気がかりなことがあるとすれば、一つだけ。





「…ねぇ、類」
「ん?」
「類は、バイオリンをやめたいって思ったこと、ある?」
日が変わる前にベッドにもぐり、いつものようにつくしを抱き込むと、彼女が遠慮がちに尋ねてきた。密やかな声が耳朶をくすぐる。

それが、彼女の依頼人の娘に関する質問であることはすぐに分かった。
亡き母親から教わったピアノをやめてしまった少女。
その深層心理について考えているのだろう。
「…あるよ。留学中に何度も。…思うように上達しなくて」
「でも類は諦めなかった。…それは、どうして? バイオリンが好きだったから頑張れたの?」


厳しい指導。繰り返した腱鞘炎。自分の力量に対する猜疑心。
練習に明け暮れた日々―。
人はひとつのことに集中しすぎると、それに向けての愛情を見失う瞬間があるのではないかと思う。実際、道半ばに夢を諦める学生を何人も見てきた。

好きなことだけを突き詰めていくことの難しさ。
逆に、手離してしまうことの心苦しさ。
相反するものを天秤にかけながら、自分のあるべき道を模索してきた。
それでも、俺がバイオリンを続けることができたのは―。


長い沈黙の末に答える。


「俺にとって、バイオリンは絆だったから」
絆、と反芻するつくしの声。
知らず、彼女を抱き寄せる腕の力が強くなる。
「…つくしとの。…手離せば、もう二度と、あんたと繋がれない気がしていた」

相手が小さく息を呑むのが分かった。
彼女の心を揺らす答え方であることは自覚していた。
そうした反応を期待していたわけではない。
それでも、俺は、当時の自分の想いを偽りたくなかった。

「だから、その子が、亡くなった母親が教えてくれたピアノをやめたのなら、その絆を断つだけのきっかけがあったはずだと、俺は思う」
「……そうだね。……ごめんね。微妙な質問して」
応えたつくしの声は小さかった。


…違うよ。俺は過去のことを明かして、彼女に謝らせたいわけじゃない。
ただ、そうした想いがあったことを知っていてほしかっただけ。
…あぁ。でも、今、無意識に彼女を責める言い方をしなかったか。
そういうのを女々しいっていうのかも…。


「俺こそ、こんな言い方してごめん。そうじゃなくて…」
場を取り繕おうと謝ると、温かなものが頬に触れた。そのまま二度、三度と優しくキスされる。少し首を回せば暗がりの中でつくしと目が合い、不穏に波立った気持ちが凪いでいくのが分かった。

「…私も、違う言い方をすればよかった」
つくしが笑う気配。
「ありがとう。ずっと好きでいてくれて。私もずーっと類が好き」


そうだね。
そんなふうに、離れていた時間さえ肯定的に捉えた言葉の方がいい。

言った後で恥ずかしさがこみあげてきたのか、つくしが顔を伏せて隠す。
胸の中に愛おしさが募る。
彼女のこういうところが、たまらなく好きなんだ。






いつも拍手をありがとうございます。
いかがでしょう? お話は楽しんでいただけていますか? 
第2話の終わりにはこのような続きがありました。
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