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糸の証 ~7~

Category『糸の証』
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「待たせてごめんなさい。やっぱり迎えに行けなくなった。先に帰っててもらえる?」
「いいよ」
「何時になるか分からないから、夕食も先に済ませていて」
「分かった」

つくしが申し訳なさそうに電話してきたのは、約束の時間を数分過ぎた頃だった。なんとなく予想がついていたので構わないと応じ、スタッフにタクシーを呼んでもらう。帰宅して夕食と入浴を済ませても、彼女はなかなか帰ってこなかった。



『まだ遅くなる?』
時刻はじきに午後10時を迎える。帰宅を急かしたいわけではないけれど、遅くなるのは心配でついメールを送ってしまう。すると、電話がかかってきた。
今、到着した。申し訳ないけれど、足を捻挫しているので下に迎えに来てほしい、と彼女は言う。俺は、慌てて1階の駐車場に向かった。



「…で、何がどうなって、こんなひどい怪我をしてるの?」
「う…。ちょっといろいろありまして…」
車から出てきたつくしは、足首だけではなく手も膝も怪我していた。転倒による負傷だと分かる。詳細は部屋で聞くとして、今は連れ帰るのが先だった。
支えながら歩くより背負う方が早いと判断し、彼女の前に屈みこむと、恥ずかしいからと拒否される。俺は声を低めた。

「そんなこと言ってる場合じゃないよね。いっそ横抱きにする?」
「…ごめんなさい。こっちでお願いします」
おずおずと背中に収まったつくしは、相変わらず軽い。俺は彼女を背負い、足早に部屋に向かう。彼女の体からは、嗅ぎ慣れない香水の匂いがした。



左掌の擦過傷、左膝の打撲、左足首の捻挫。
中でも足首の腫れはひどかった。今夜の入浴は難しいだろう。
膝と足首はアイスノンで冷やし、掌の傷の消毒をしながら、彼女に詳細を尋ねた。
「…それで?」
彼女は言い淀んだが、無言の圧力を与えるとポツポツと経緯を話し始めた。例の未成年が関わっていると分かる。怪我は自分の不注意だと、つくしは相手を庇った。そもそものきっかけを与えたのはその子だろうと思ったが、コメントは避けた。

「はい、治療終わり」
「ありがと」
「今、夕食あっためるから待ってて」
「うん」

普段は何でも手早くこなしてしまう彼女にこうして世話を焼けるのは、不謹慎だがちょっと嬉しい。明日、足の腫れがひどいようなら病院に連れて行こう。頭の隅でそんなことを思いながら、その後も彼女の寝支度を甲斐甲斐しく手伝った。





翌朝、目覚めると、傍にあるはずの温もりは消えていた。
ノロノロと体を起こしてつくしを探すと、バスルームからシャワーの音がするのに気付く。入浴ができるのなら、足首の状態はそう悪くないのかもしれない。
欠伸をしながらキッチンに向かい、コーヒーメーカーの準備をした。いつもなら自分達でする朝食の準備だが、念のためミキに連絡をし、手伝いを依頼する。


やがて、トタトタと軽い足音をさせながら、つくしがリビングに入ってきた。
もうパンツスーツに身を包んでいる。
「おはよう。今、起こしに行こうと思ってたんだよ」
「ん。怪我はどう?」
「昨日しっかり手当てしてもらったから、腫れはだいぶ引いたよ。まだ痛いけど、歩けないほどじゃない」
「ちょっと見せて」

俺はつくしに近づくと、そのまま彼女を横抱きにした。大丈夫だってば!と慌てる彼女をソファまで運び、跪いて左足首の状態を念入りに確認する。
確かに昨夜より状態は良くなっていたけれど、腫れが完全に治まったわけではない。幸い、膝の打撲は軽症で済んでいる。
「足はテーピング固定した方がいいね。手も消毒するから」
「でも、朝の準備が。お弁当も…」
「さっきミキを呼んだから大丈夫。そろそろ来ると思うよ」
「…ほんと、何から何まですみません…」

シュンとして項垂れるつくしを見上げ、俺は笑ってみせる。弁護士稼業のためか、ポーカーフェイスを覚えた彼女。でも、眉尻を下げたこの表情は高校生の頃のままで、庇護欲を強く掻き立てるものがある。


「俺に悪いと思うなら、もっと気を付けな。こんな心配させないで」
「うん」
「あんたの体は、俺のものでもあるんだからさ。大事にして?」
「…うん」

伸び上がって掠めるようなキスをすると、つくしは軽く目を見開いた。
至近距離で見る漆黒の瞳は、どこまでも澄んで綺麗だ。
ソファの背もたれに押し付けるようにして再び口づけると、一拍遅れて細い体から力が抜け、彼女は甘く応えてくれた。


もっと深く、と思った矢先、インターフォンが鳴った。
キスの余韻を惜しむように、彼女の下唇を軽く吸って離す。
「…残念。続きは怪我が治ってからね」
薄らと頬を染めたつくしが目を伏せたまま、小さく頷くのが見えた。
俺はそのまま立ち上がり、ミキを出迎えるため玄関に向かった。




出勤するつくしを駐車場まで見送り、ミキが午前の家事を始めると、俺は特設した防音室に籠った。仕事用のパソコンを起動してメールボックスを開くと、メールが数件届いていた。大抵はマネージャーの有馬が送ってきたものだけれど、その中に見慣れない独語を見つける。

差し出し人は、フランツ・シュナイダー。パリの交響楽団の首席指揮者だ。
俺が退団してからも、彼とは時折メールをやり取りしている。
メルとのデュオ・コンサートが決まってすぐ、彼には公演日を報告していた。
彼のための座席は早々と確保している。


フランツは、俺の初ツアーへの祝辞を述べた後、こう書き記していた。
スケジュール調整がうまくいき、公演当日の朝、来日する予定であること。
そして、翌朝にはイギリスに向かうこと。
俺のパートナーであるつくしに会いたいと思っていること…等々。


フランツに対しては、言い尽くせないほどの感謝の気持ちがある。
彼の助力なくして、今の俺を語ることは出来ないから。
承諾の旨、すぐに返信した。



その後、有馬のメールにも返信をして、俺はバイオリンの練習を始めた。
午後には、市内にあるスタジオで、メルと音合わせをする予定になっている。
彼女に会うのは、実に1年ぶりのことだった。






いつも拍手をありがとうございます。今作でも多くの伏線をばら撒いています。
終盤にしっかり回収するので、最後までよろしくお付き合いください。
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