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糸の証 ~8~

Category『糸の証』
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あの夜から丸3日が経過しても、なずなさんからは一向に音沙汰がなかった。
トラブルの当人が積極的でない分、進捗状況は遅れがちだ。
実際には、まだ先方から訴状が届いたわけではない。私が担当している案件は千石社長の依頼だけではないため、期限の定められた他の案件と比べると、どうしても優先度は低くなる。

二人の中学生が不登校のままである現状は、早急に解決すべきものだと思っている。裁判に発展する前に話し合いで解決策を模索できるはずなのだが、なずなさんの口から諍いの詳細が語られない以上、アプローチの仕方が分からないままだ。どうにも歯がゆくてならない。




―土曜日の午後。
私は、週明けに行われる離婚調停の準備のために出勤していた。

海藤事務所は、基本的に土・日・祝日を休みと定めている。それでも、顧客の都合によっては休日でも出勤して対応しなければならず、個々の休暇取得はフレキシブルに、というのが正しい。他に出勤しているのは海藤先生と澤田先生。的さんもいるけれど、彼は今、勉強タイムだ。

転倒による怪我はこの数日で順調に癒え、歩くのにも支障はなくなった。
類の細やかなケアが功を奏したのだと思う。


午前中、なずなさんの自宅に連絡した。今日こそアポイントを取り付けようと思ったのだ。だけど公佳さんからは、彼女は昨夜から帰ってきていないという驚くべき報告を受ける。中学生が無断外泊。…しかも初めてのことではない、と。

なずなさんの携帯電話は電源が切られており、交友関係も分からず探しようがない、と公佳さんは途方に暮れたように言った。千石社長はそのうち帰ってくるから、と事態を静観しているという。彼女が帰ってきたら連絡してほしい旨を伝え、公佳さんとの通話を終える。


…ため息が出る。これまでにも大変だと感じる案件はいくつもあったけれど、今回ほど遅々として話が進まないケースはなかった気がする。それに、子供を持たない私が意見できる立場ではないけれど、千石夫妻のなずなさんへの対応はどこか誤っている気がしてならない。



悶々としながら仕事を片付けていると、佐久間さんから連絡が入った。佐久間さんは私が依頼した通りに、なずなさんの最初の講師であった久芳加寿子さんの所在を突き止め、話を聞きに行ってくれていた。
「久芳さんと会えました! すぐ報告したいので、私が帰るまで待っていてくださいね」
佐久間さんの声はわずかに弾んでいて、事態を好転させるような何かを掴んだ様子だった。

彼女は帰路を急いでくれたようで、それから1時間ほどで戻ってきた。
「では、報告します」



久芳加寿子さん。58歳。元ピアノ講師。
彼女が仙台市内で開いていたピアノ教室を閉めることになったのは、今から約3年前。理由は病気療養のため。先生は血液系の癌を患い、治療に専念するため長期に入院することになった。ご主人は既に亡くなっており、退院後は岩手県一関市に住む娘さんの近くに住まいを移し、現在は一人暮らしをしている。

佐久間さんがなずなさんの現状を明かすと、久芳さんは瞳を潤ませ、彼女の不遇をひどく悲しんだという。文通の内容について確認させてもらったところ、非常に興味深いエピソードが得られた。


「そもそも久芳さんは、亡くなった千石鈴奈さんのピアノの先生でした。20年以上のお付き合いだったとか。久芳さんにとってなずなさんは教え子の子供ですから、殊更に可愛い存在だったようです。鈴奈さんが事故で亡くなった時のこと、千石社長が公佳さんと再婚された時のこと、その後の家族の確執についてもよくご存知でした」
「なずなさんにとっては相談相手だったのですね?」
「そうです。文通は半年ほど続きましたが、久芳さんの癌治療が過酷なものになると返信ができなくなり、結局うやむやになってしまったそうです。なずなさんの手紙は引越しの折にどこかに紛れてしまったようで、現物は最後の一通しか見つけられなかった、とのことでした」


佐久間さんは、当時12歳のなずなさんが書いた手紙を差し出す。淡い水色の封筒の表には、几帳面な文字が並んでいた。小学生が書いたものとは言え、私信を勝手に読むことへの非礼を小さく詫びると、私は便箋を開いた。
拙い文章であったけれど、そこには彼女の苦悩がありありと書き記されていた。


弟が生まれてから、家庭内に自分の居場所を見つけられないこと。
新しいピアノ教室で、意地悪をしてくる女の子がいること。
大好きだったピアノが楽しく感じられなくなってきたこと。


「久芳さんはこの手紙を受け取る前に容体が急変してしまい、一時は生死の境を彷徨ったとか。ようやく手紙を見つけて読むことができた頃には、もうなずなさんの連絡先が分からなくなっていたそうです」
「確か千石さんも引っ越しをされていましたね」
「送った手紙は返送されてきたそうです。それで一度、千石堂の本社の方になずなさん宛ての手紙を出したそうなのですが、それに対して返信は来なかったとのことです」


手紙の最後には、こんな一文があった。
『さなちゃんが教室をやめるときは、わたしも一緒にやめようと思います』


「佐久間さん、最後に出てくる『さなちゃん』が誰かは分かりますか?」
「確認済みです。当時、久芳さんの教室に通っていた2歳年上の本谷ほんたに紗南さなみさんだそうです。新しい教室へもなずなさんと一緒に通っています。二人は姉妹のように仲が良かったそうです」

…直感が働いた。
なずなさんは今、『さなちゃん』と一緒にいるのではないだろうか。

「なずなさんは昨日から自宅に戻っていないそうです。本谷さんのところにいる可能性がないかと思うのですが、連絡先は分かりますか?」
「いえ…。でも、久芳さんはご存知かもしれません。連絡を取ってみますね」


その後、30分ほどして久芳さんから折り返しの連絡があった。講師同士の伝手で、本谷紗南さんの現住所を教えてもらえたという。電話を代わってもらい挨拶をすると、久芳さんは丁寧に応えた後でこう言った。

どうか、なずなちゃんの力になってあげてほしい。でも、もし本当に悪いことをしてしまったのなら、正しい方向へと導いてやってほしい、と。

そんな風に頼まれるのは、公佳さんに続いて二人目だ。
なずなさんには、彼女の過去を知る人にそう言わせるだけの何かがあるのだ。
久芳さんの希望に応えるべく、全力を尽くすことを約束する。




通話終了後、本谷さんの自宅に向かう準備をする。佐久間さんは同行を申し出てくれたけれど、彼女にも休息は必要だと思い、今日はもう帰宅するようにと促した。

「あっ! 先生、これを!」
佐久間さんが慌てて私を引き留めた。そして、淡いグリーンの封筒を差し出す。
「久芳さんから預かってきた手紙です。なずなさんに渡してほしいとのことです」
「ありがとうございます。必ず渡します!」

久芳さんの手紙を受け取り、私は事務所を飛び出した。
これで事態が好転してくれるといい。そう願いながら。






いつも拍手をありがとうございます(*^-^*)
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