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糸の証 ~10~

Category『糸の証』
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デュオ・コンサートは、1週間後の土曜日に控えている。
俺とメルは、本番で使用するホールを貸し切り、最初から最後まで通しのリハーサルを行った。細かい調整はまだ必要だけれど、出来栄えは上々だと感じた。

メルのピアノの音色は素晴らしい調和を持って、俺のバイオリンの音に馴染む。
主張しすぎず、控えめになりすぎず。彼女はステージ上での魅せ方を知り尽くしていて、俺に新たな視点を与えてくれる。かつて交響楽団に所属しているときもそうだった。メルに学ばせてもらったことは多い。


『フリーになっても類の技術は健在ね。何の心配も要らないわ』
『ありがとう。メルにそう言ってもらえると自信になるよ』
『ご謙遜ね。ルイはいつも自信に溢れていたでしょう』
『無知だったからね。今はそうでもないよ。…それに、アウローラにも助けられていると思う』

そう言って、俺は愛用しているバイオリンの横板の曲線を優しく撫でた。



世界的に有名な弦楽器の一つ、ストラディバリウス。ストラディバリ父子によって製作された弦楽器のうち、現存するバイオリンは約600挺。現在も演奏に使用されているのはその半分ほど。特にアントニオ・ストラディバリの作品は素晴らしく、その傑作には特別な愛称がつけられている。価格たるや、億の値が付くものばかりだ。

日本人に縁のあるストラディバリウスは40挺ほど。個人所有もあるが、音楽財団が所有し奏者に貸与しているケースも多い。俺の愛用品も花沢の所有ではない。京都在住のある資産家から、花沢物産に条件付きで貸与されているものだ。


最初の所有者がつけた愛称は『アウローラ』。
ラテン語で『夜明け』を意味する。


縁あってアウローラを所蔵したはいいが、自宅に眠らせておくには惜しい。
この音色を美しく響かせ、それを後世にも遺してほしい。
現在の持ち主のそうした願いから奏者が選定され、幸運にも俺が選ばれた。
交響楽団での実績、将来性、そして花沢の管理能力を高く評価してもらえたらしい。

帰国後、初めてアウローラを弾かせてもらったとき、その音色の美しさに俺は愕然とした。同じバイオリンでも、これほどまで音の響きに違いがあるものかと。
のちに花沢側はこれを購入したい旨を伝えたが、持ち主からは生涯売るつもりはないとの返答をもらっている。


この名器に恥じない演奏をする。
それが、今の俺の使命だと思っている。




『ルイのパートナーとはなかなか会えないわね。リハを見に来るだろうと思っていたのに』
ふいにメルがそのようなことを言い出すので、俺は苦笑した。
『妻には自分の仕事があるから』
『仕事…ね。公演当日には来るのでしょう?』
『あぁ。フランツにも会わせる約束なんだ』

彼の名を聞くと、メルの瞳がふっと和んだ。
かつてはメルもフランツにその才を見出され、交響楽団に呼ばれた経歴を持つ。

『わざわざ来日するなんて、あなたは本当にフランツに愛されてるわね』
『彼は、俺だけじゃなくメルも見に来るんだよ』
『メインはあなたよ。…きっとね』


フランツは主宰している交響楽団の公演のみならず、後進の指導にも全力を注ぐ人だ。そのスケジュールは多忙を極める。だからこそ彼が来日できると知った時は、嬉しさよりも驚きが上回った。
師を前にして稚拙な演奏は出来ない、と改めて気を引き締める。


その後も何曲か音合わせをしてリハーサルを終え、数名のスタッフとメルと夕食を共にした。メルは明日からの数日間、東京で仕事をする予定で、木曜日に仙台に戻ってくるという。




滞在先のホテルにメルを送り届けて帰宅したが、つくしはまだ帰っていなかった。
今夜も遅くなる旨のメールが送られてきたのは、午後9時を過ぎた頃。理由は書いていなかったが、例の未成年が関係していそうな気がする。

今日は土曜日で本来なら仕事は休んで構わない日だが、彼女が週末の連休を取得することは稀だった。特殊な専門職においては、週休二日制などあってないようなものだと思う。


入浴を済ませ、リビングルームのソファで寛ぎながら、テレビのバラエティ番組を何とはなしに目に映していた。午後10時半頃までの記憶は残っている。だが、リハで集中しすぎたせいか、眠気を自覚する間もなくそのまま眠り込んでしまった。





「…類。…起きて」
心地よい微睡の中、すぐ傍でつくしの声がする。
「…ここで寝ちゃダメだよ。ベッドに行こう?」
肩を優しく揺すられて、沈み込んでいた意識がゆるゆると浮上してくる。
薄く目を開けると、困り顔のつくしが俺を上から覗き込んでいた。彼女はもうナイトウェアに着替えていて、体からはふんわりとソープの香りがする。

「…おかえり。…今、何時?」
「12時半。…ごめんね。疲れてるのに。帰った時にも、何度か声は掛けたんだけど…」
それでも俺が起きなかったから、先に寝支度を済ませてきたのだろう。テレビはもう消されていた。冷えぬようにとケットが体に掛けてある。起き抜けの倦怠感をどうにかやり過ごして立ち上がり、二人で寝室に向かった。




ベッドにもぐりこむと、仕掛けてきたのはつくしの方だった。
脇腹をくすぐる手の動きに、俺は小さく笑い声を上げる。
つくしの鼻先に音を立ててキスすると彼女も笑い、俺の唇を軽く啄むようにした。

頭のどこかでパチンとスイッチが入る感覚。
体勢を変えてつくしの上になり、熱く深く口づける。
互いの熱を溶け合わせる甘やかなキスに夢中になる。

上衣に手を滑りこませて素肌を撫であげ、胸の柔らかさを堪能する。
彼女から吐息混じりの声が洩れてくると、体の中心が急速に熱を帯びた。


愛し合うには遅い時刻だと分かっていた。
相手がひどく疲れていることも。
それでも、どうしても、そうしたかった。
今、切実に彼女が欲しい。


「明日は、早い?」
「…大丈夫」
怪我が治るまで、という前言通り、しばらくつくしに触れていなかった。
一気に高まっていく情欲のヴォルテージ。
遅くにごめん、とさらに一言添えると、腕の中の彼女がはにかんで笑う。
「いいの。私も、したかったから」
「目で誘ってたよね」
「そう訊くの、無粋だよ」
確かに、と同意して彼女の首筋に顔を埋め、その上衣のボタンを外しにかかった。



それからは無心に求め合った。
彼女しか知らない俺と、俺しか知らない彼女。

乱れていく自分の吐息が、艶を帯びていく彼女の声が、夜の静寂しじまを破る。
どんなに多忙であっても、この時ばかりは二人だけの時間だ。


愛し、愛されて。
癒し、癒されて。


これ以上の幸せなど望むべくもないのに。
こんなにも俺はかつえてしまう。…彼女の愛に。






いつも拍手をありがとうございます。
愛称付きのストラディバリウス、価格はビックリするものばかりです。
類所有の『アウローラ』は実存しませんので悪しからず(^^;)
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