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糸の証 ~16~

Category『糸の証』
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翌日の金曜日は早朝から雨だった。
降水量は多くないものの長雨になる、と車中のラジオは報じた。

類は一昨日から東京の自宅に戻っている。今秋、自身初となるクラシック・アルバムをリリースする予定があり、花沢物産本社に打ち合わせに行ったのだ。ついでにCDジャケットや宣伝用の写真撮影もあるとか…。夜までに戻るけれど夕食は要らない、と昨夜の電話で彼は言っていた。



「ご主人のコンサート、いよいよ明日ですね!」
出勤するとすぐ、弾んだ声で話しかけてきたのは事務員の宮川さんだ。彼女は“Rui”のファンであることを公言しており、今回の公演のチケットも購入済みだ。クラシック全般に精通していて、共演者のメラニー・ロベールさんについても詳しい。
二人のデュオ・コンサートは、明日午後6時半に開演する。

「仕上がりは順調そうですか?」
「えぇ。リハーサルの出来は上々だったそうですよ」
「あ~、楽しみですっ! 先生はリハをご覧にならなかったんですか?」
「えぇ。都合がつかなかったので…」
「千石堂さんの対応が大変そうですものね。その後、どうです?」
「朝礼で報告しますが、なずなさんにやっと真相を語ってもらえそうです。今は連絡待ちです」


朝礼の場で進捗状況を話すと、珍しく海藤先生がコメントをされた。
なずなさんの案件についてだった。

「では、話し合いを希望するのですね」
「はい。千石社長となずなさんの了承は得ました。これから先方に打診してみます」
海藤先生は小さく一つ頷いてから、
「あちらの弁護士事務所には私から連絡します。以前に何度かやりとりのある相手ですから、探りを入れてみましょう」
「ありがとうございます。よろしくお願い致します」
所長の申し出に、私は深く頭を下げた。


海藤先生は仙台市の出身だ。都内の国立大学に進学し、法学部卒業後は大手の法律事務所に入り、そこで多くの経験を積んだという。その後、32歳で仙台に戻り、同郷の弁護士の助力を得て現在の事務所を開設された。先生が『マチ弁』として市井の問題に向き合って30年余り。その経験から学ぶことは実に多い。



海藤先生は朝礼後すぐに、佐竹田家の代理人を務める鴫谷しぎたに弁護士事務所に連絡を取ってくださった。だが先方は、両家の話し合いの場を設けることは不可能だろう、とあっさり返したという。

鴫谷弁護士によると、佐竹田夫妻は妻の方が激しい気性で、真尋さんが不登校になっているのも、ピアノに向き合えなくなってしまったのも、すべてなずなさんの虐めのせいだと強く主張している。幾度となく謝罪を拒否された千石社長も同じ印象を述べていたけれど、真尋さんの母親は人の話を聞き入れる姿勢がまるでないらしい。
海藤先生はいろいろな切り口から交渉を持ちかけたけれど、鴫谷弁護士は難色を示すばかりで、結局渡りをつけることができなかったそうだ。


パラリーガルの佐久間さんには、この佐竹田家についての調査も依頼していた。
父親は外資系企業の幹部役員、母親は専業主婦、夫妻の子供は真尋さん一人だけ。一家の暮らしぶりはとても裕福で、住居も所有車もハイクラスだという。この春、新築マンションを購入し、3月末に転居している。この転居に伴い、真尋さんはなずなさんの在籍する市立中学校に転校してきた。
佐久間さんには今、転居前に近隣トラブルがなかったかを調べてもらっている。


他にどんなアプローチが可能だろうか。澤田先生ならばどうするだろう。
協力を仰いでみるべきか。それでも、優秀な彼の抱える案件は私の倍以上だ。手を煩わせたくないという思いがある。
すべてを明かすといったなずなさんからの連絡を、今は待つしかないと思った。




夕方に予定していた面談が来週に持ち越したので、今日は定時で上がることにする。雨はまだシトシトと降り続いていた。陽の落ち切っていない時刻でも、フロントガラス越しの空はすでに暗い。大通りの渋滞を回避して最近覚えた裏道を抜けると、午後7時になる前に帰宅できた。


「ただいま帰りました」
「お帰りなさいませ。今日もお疲れ様でした」
キッチンには白い割烹着姿のミキさんがいて、夕食の準備をしてくれていた。彼女は、平日は毎日ここに出入りしているけれど、帰宅の遅い私が顔を合わせる機会は少ない。日頃の感謝を伝えたくて、先ほど立ち寄った店で購入した品をそっと差し出した。
「いつもありがとうございます。『みと屋』のお饅頭です。良かったら召し上がってください」
「まぁ、つくし様。お気遣いなど、勿体ないことでございます」
「そんなことないです。ミキさんには助けられてばかりですから」

ミキさんは手を止めて水滴を拭き、恭しく紙袋を受け取った。笑うと目尻が少し下がって、本当に優しい笑顔になる。彼女は固辞したけれど、私達はキッチンに並んで調理の仕上げをした。


それから二人で談笑しながら夕食を摂り終えた。話題はもちろん類のことだ。
明日の公演に、類はミキさんも招待している。更にはうちの両親と、市内に住む父方の祖父母を招待することも、彼は忘れないでいてくれた。私も含めて皆、類の公演を会場で観るのは初めてだ。





「今日は早く帰れたんだ」
「うん。面談がキャンセルになって」
午後9時過ぎに帰宅した類は、玄関先で出迎えた私にそう言った。普段は類に出迎えてもらうことが多いから、こうしたシチュエーションが新鮮で嬉しい。それと同時に、申し訳ない気持ちも湧き上がってくる。
「お帰りなさい。疲れたでしょう」
「予定詰めてたから。でも、アルバムはだいぶ形が見えてきたよ」

アルバムの制作にはたくさんのスタッフが関わるという。コンセプトに沿った選曲、収録と編集、カバーデザインの決定、リリースの宣伝など…。そうした一切合切を、今後も続いていくリサイタルツアーの合間に行うのだから、類はこれからもっと忙しくなるのだろう。


「眠いし、撮影は長時間だし、有馬はうるさいし…」
「大変だったね。明日もあるのに」
類の疲れた表情を見上げて苦笑すると、ふいに距離が縮まり、ぎゅっと抱きつかれる。私の丈に合わせて丸くなった背を抱き、慰めるようにポンポンとたたくと、彼の声のトーンが変わった。
「3日間の労をねぎらって」

出張帰りの日はいつもこうだ。
彼はバイオリンが好きだけれど、それを続けるための他の仕事は好きではない。それでも、自分の為さねばならないことを、彼はちゃんと自覚している。だから、その狭間で精神的に疲弊してしまうのだと思う。


「腕のマッサージしてあげるね」
「…他には?」
「指先のケアもしてあげるよ。明日に備えて」
「…他には?」
「お風呂、行こっか」
「…ん」


離れている時間が長くなればなるほど、類は甘えたがりになる。
こうした一面は結婚してから知ったことだ。




今夜は贅沢に時間を使おう。
あなたに、たくさんの愛を注ぎたい。


離れている時間を寂しく思うのは、私も同じだから。






いつも拍手をありがとうございます。
バイオリニストは弦を押さえる指先が硬くなるそうです。そのため細やかな保湿ケアが必要なのだとか。物語は中盤へ。類の公演が始まります。
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