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糸の証 ~17~

Category『糸の証』
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昨日からの雨は、少雨ながら夜半も降り続いて今朝まで持ち越した。だが、午後には上がるだろうとテレビの予報は告げる。陰鬱な空気を霧散させるように、キッチンからはつくしの鼻唄と調理の音が聞こえてくる。

「類! 準備できたよ」

いつもの朝の風景。
そうした日常の繰り返しに、俺は大きな充足を得ている。


昨夜は、つくしが念入りに体のメンテナンスをしてくれた。
頭から腕までをマッサージし、筋肉の強張りをほぐしてくれて。
練習で徐々に固くなる指先を、ピーリングジェルで丁寧にケアしてくれて。


―アウローラと、素敵な音が奏でられますように―


彼女は小さな手で俺の両指を包みこみ、目を閉じて願をかけるように言った。日本での公演前にはいつもそうしてくれて、その甲斐あってか演奏は上々の出来で。
つくしの施術は、俺にとって成功のジンクスなのだと思う。




朝食後、つくしはキッチンを手早く片付け、身支度を整えた。
「先に出るね」
「ん。気を付けて」
今日は公演が始まる前に、フランツとメルにつくしを紹介するつもりでいる。約束の時間が来るまでは職場で仕事をするという彼女を、玄関先で見送る。事務所からコンサートホールまでは、徒歩でも移動可能だ。

「会場に着いたら有馬を呼び出して。俺は電話に出れないから」
「分かった」
「5時だよ。遅れないでね」
「もちろん! じゃあ後で」

今日のつくしは、クラシック鑑賞に合わせて優雅な装いだ。アイボリーとブラックのバイカラーのワンピースが、色白の彼女によく似合っている。いつも一纏めにしている髪は下ろされ、艶やかさを放ちながら肩先で揺れる。軽くハグを交わした後、つくしはプリーツの裾をふわりと翻し、笑顔でドアの外へ滑り出た。
俺の方はあと1時間で迎えが来ることになっている。それまでにできる仕事を片付けておこうと防音室へ入った。





―午後4時半。コンサートホールにて。


フランツは約束の時刻よりも30分早く姿を見せた。マネージャーの有馬に誘導され、銀髪の紳士は大きなストライドで近づいてくる。実に8ヶ月ぶりの再会だった。

パリの交響楽団の首席指揮者、フランツ・シュナイダー。俺の音楽人生を決定づけてくれた偉大なる師は、最後に会ったときと変わらず若々しく、そして気概に満ちていた。眼鏡の奥の青い瞳が、俺の姿を捉えて懐かしそうに細められる。
差し出された彼の右手を固く握り、俺は言った。

『遠路はるばる、ありがとうございます。またお会いできて嬉しいです』
『私もだよ。今日の公演を心待ちにしていた。メルは?』
『今、スタッフに呼びに行かせています。すぐここに来るでしょう』

ほどなくメルも姿を見せ、二人は声を上げて異郷の地での再会を喜び合った。
俺達は、俺が使用している控室へと移動し、そこで近況を報告し合いながらつくしの到着を待った。




つくしが有馬に案内されてやってきたのは、約束の時刻の10分前だった。
俺はすぐさま立ち上がり、彼女を部屋に迎え入れた。つくしの表情は少し硬く、初対面の二人に対して緊張している様子が窺えた。それを和らげるように華奢な肩を抱き寄せ、二人に紹介をする。
『妻のつくしです』
『初めてお目にかかります。花沢つくしと申します』
フランツとメルは日本語が話せない。つくしは流暢な英語で挨拶をした。


先に応じたのはフランツだった。
『フランツ・シュナイダーです。お会いできて嬉しいです。この度はご結婚おめでとうございます』
『ありがとうございます。贈っていただいたお祝いは本当に素晴らしいものでした。大切に使っています』
『あぁ、気に入ってもらえたのならよかったです』

彼が空輸して届けてくれた結婚祝いは、マイセン陶磁のティーカップセットだった。美しく滑らかな白磁とコバルト色の特徴的な染付けは世界的にも有名だが、フランツは知人を通じて、俺達のためにオリジナルデザインを特注してくれた。高価すぎて使うのが怖いと言いながらも、マイセンへの憧れの強いつくしがとても嬉しそうにしていたことを思い出す。



次にメルが挨拶を述べた。深紅のドレスに身を包んだ彼女は、神話に出てくる女神のように高潔で、一種、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
『初めまして、つくしさん。メラニー・ロベールです』
『お会いできてとても嬉しいです。今日の公演をずっと楽しみにしていました』
『私もです。ルイのパートナーに会うのが楽しみでした。どんな女性なのかしらって、仲間内でも話題になっていて…』

メルは言葉を切って俺の方に視線を振ると、艶やかに笑って言った。
『奥様は可愛らしい人ね。シズカとはずいぶん雰囲気が違うのね』



―藤堂静。
大切な幼馴染みであり、かつて心から恋焦がれた女性ひと
メルの口から静の名が出ることは想定内だった。



『あぁ。つくしは大和撫子だから』
『ヤマト・ナデシコ?』
『純和風だということ。撫子は花の名だけど、日本女性の美称ともなる言葉なんだ』
『まぁ! あなたでも惚気ることがあるのね』

つくしは微笑を湛えたまま、俺の傍に控えている。俺とメルのやり取りを聞きながら、その時、彼女が何を思っていたのかは察することが出来なかった。


メルに関して気がかりだった、ただ一つ。
それは彼女が高校時代に静のクラスメイトで、俺の幼い恋心を知る人物だったこと。


メルは、親しい友人である静に向けて、心酔に近いほどの好感情を抱いている。2年前、静が同業者のフランス人男性と結婚するまで、俺が思いを寄せる相手は彼女なのだと信じて疑わなかった。
悪意はないのだが、メルは思ったことをストレートに発してしまう一面を持つ。つくしに会ったら、メルはまず静のことを引き合いに出すだろうと思っていた。その可能性については、つくしにも事前に話をしている。


―得てして、事態はそのようになった。



『ロベールさんは静さんの同級生だとお聞きしました。今も連絡を取り合っているのですか?』
話の接ぎ穂を探す俺に代わり、質問を述べたのはつくしだった。
彼女の声はただ穏やかだった。これにメルが応じる。

『えぇ、ずっと親しくしているわ。彼女の結婚式にも参列したの。本当に綺麗な花嫁姿で…。シズカは、弁護士にしておくには勿体ないと思うわ』
『そうですね。…でも、ご自身の夢を叶えた今の静さんもやはり素敵だと思います。私は、ずっと静さんに憧れていましたから…』
『まぁ、そうなの。彼女に影響されて、あなたも弁護士になったの?』
『…いいえ』


つくしから放たれる、凛とした否定。
彼女が見せるのは、何の感情も滲ませない完璧なまでのポーカーフェイス。


『弁護士になることは子供の頃からの夢でした。…静さんが弁護士を目指すと聞いた時、私達は同じ道を志すのだととても嬉しく思いました。夢を叶えた今でも、その気持ちは変わりません』






いつも拍手をありがとうございます。
設定上、つくしは英語が堪能です。でもフランス語は話せません。
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