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糸の証 ~18~

Category『糸の証』
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面倒な書類作成に目途をつけたのは、類と約束した時刻の40分前だった。事務所にいた海藤先生、朝比奈先生、的さんの三人に見送られ、コンサートホールへと向かう。昨日からの長雨はようやく上がり、まだ灰色がかった雲の間からは白い陽光が差し込んでいた。

ホールのエントランスに到着した時点で、有馬さんに連絡をした。有馬さんは通話後すぐ私の元へと駆けつけ、人好きのする笑顔を浮かべて挨拶し、類の待つ控室へと誘導してくれた。
移動の間に、ファンレターのデータを探してくれたことへの礼を述べる。奥様のお役に立てたのであれば光栄です、と彼は応じた。


パリに拠点を置く交響楽団の主催指揮者、フランツ・シュナイダーさん。
プロのバイオリニストとしての生き方を、類に示してくださった人。

その交響楽団に所属し、独立後は世界で活躍されているピアニスト、メラニー・ロベールさん。自己表現の新たな可能性を、類に示してくださった人。

類はもとより、クラシックに詳しい宮川さんからも二人の逸話は聞いていた。そんな彼らとの対面の時が迫り、私の緊張は急速に高まっていった。



事前に聞いていた通り、フランツさんは笑顔の素敵な紳士だった。類に並ぶほどの長身、ゆるくウェーブのかかった銀髪、そして色彩の薄い碧眼。結婚祝いを贈っていただいたことに改めて礼を述べると、彼は大らかに笑み、目尻の皴を深く刻んだ。


ただロベールさんについては、早い時分から類の話とは異なる印象を受けていた。類は、彼女の人柄についてこう評していた。
『メルは静と親しいから、彼女の話題を振るだろうけれど気にしないで』
『物言いは少しキツイけど、根はいい人だから』
類がロベールさんに対して深い恩義を感じていることは承知していた。だけど―。


―あぁ、そういうことなんだ。


親しげにやり取りを交わす二人を見ていると、……正しくは、類に向けるロベールさんの視線を見れば、すぐに理解できた。彼女がどのような思いで類を見つめてきたのか。ここで大切なのは会話の内容そのものではない。言外に潜む、言葉にはできない感情の方だ。


―類は、本当に、気付かなかったの?


ロベールさんが静さんのことを引き合いに出したのは、彼女への親愛の情からだけではないだろう。相手が静さんなら諦められる想いは、私という伴侶では納得がいかず、到底昇華できない。そういう意味が込められていたんじゃないかと思う。

そうした見方を、類は穿ち過ぎだと笑うのかもしれない。だけど、これまでの経験から、このインスピレーションがそれほど的外れなものではないことを、私は知っている。

私を見つめる彼女の視線には、隠しきれない感情が滲む。幾度となくそうした視線を受け止めてきた自分だからこそ分かる、無言の問い。




―どうして、彼の傍にいるのがあなたなの?




四人での談話はしばらく続いた。その間、笑顔は絶やさずにいた。それでも少しずつ心が疲弊していくやり取りに、区切りをつけてくれたのはフランツさんだった。
『そろそろ席の方へ行くよ。二人には準備が必要だろう。ルイ、奥さんを借りるよ』
フランツさんはそう言って私に振り向き、器用に片目でウインクして見せた。類は頷くと、私を引き寄せて耳元に囁く。その瞬間、ロベールさんがスッと視線を逸らせたのを目の端に捉えた。

「フランツに惚れたらダメだよ」
あえて日本語での軽口に、私は小さく笑う。
「日本のことを知りたがってるから教えてあげて。フランツが来日したのは5年ぶりなんだ」
「分かった。本番頑張ってね」
「あぁ」



類達と別れ、フランツさんと二人で指定席に向かう。類が私達のために準備してくれたのは、ステージが正面に見える2階の最前列中央席。このホールの形状では、ここがベストポジションらしい。
時刻は午後5時45分。まだ開場されていないホールにスタッフ以外の姿はなく、観客は私達二人きりだった。

『日本にはいつまで滞在されるんですか?』
『明日の昼前にはドイツ行きの飛行機に乗ります。ゆっくり東京観光もしたかったのですが、日程調整がうまくいかなくて』
『お忙しいのですね』
『ありがたいことだ。好きな事に没頭できる人生は幸せです。あなたにとって弁護士という仕事もそうなのでしょう』
フランツさんの言葉に、軽く目を見開く。

『弁護士になることが夢だったというあなたに、プライドと芯の強さを感じました』
『…私のプライドなど、取るに足らないものです』
『そうでしょうか? 自分の仕事に誇りを持つことは大切です。…尤も、ルイは、人とは違う情熱の傾け方をしていましたが』
意味を図りかねて彼の瞳を見つめ返す。フランツさんは続けた。

『ルイは音楽を愛しているし、音楽にも愛された人間だと思います。それに甘んじることなく、技量を磨く努力も惜しみませんでした。ストイックすぎるほどにね。…だが、バイオリニストとしての成功の裏で、彼の心はずっと空虚なままでした』


―空虚。


『今日再会して分かりました。彼の幸せそうな笑顔に出会って驚きました。パリでの日々でルイの心を埋められなかったものが何なのか。…あなたこそが欠かせないピースだったのだと』
彼は微笑む。それは心からの祝福に満ちていた。
『すべてを満たしたルイが、アウローラをどのように奏でるのか。新たな彼に出会うつもりで、今日という日を楽しみに来日したのですよ』




やがて開場の時刻になると、後方の入口から人が列になって入ってきた。座席数は約1000席。それらを埋めていく観客のほとんどは女性のように見える。年齢層は幅広く、中には小学生と思しき少年少女の姿もあった。牧野家の両親や祖父母、ミキさん、宮川さんの席も1階だと聞いている。
フランツさんとの会話は楽しかった。臨場感に満ちていくホールを眺めつつ、日本のことをたくさん話した。


開演時刻が近づき、携帯電話についてのアナウンスが流れ始めた。自分の携帯がサイレントモードになっているのかを再確認しようとし、ふと画面の着信履歴に気付く。

午後5時半と6時に不在着信があった。
非通知番号からだった。留守電メッセージは入っていない。
…なずなさんだろうか。
なんとなく、胸騒ぎがした。


『すみません。着信があったようです。急用かもしれないので折り返してきます』
フランツさんに一言断り、私は席を立った。

人の流れに逆行しながらホールの外に出て、携帯電話の使用を許可されているブースにたどり着く。なずなさんの携帯番号に電話をかけようとした瞬間、非通知で三度目の着信が入った。即座に応答する。

「もしもし」

向こう側から聞こえてくるのは、強い風の音だけだった。
電話の通話孔を吹き晒しにするゴォーッという音。
相手はどこからこの電話をかけているのだろう。

「もしもし。どなたですか?」
腕時計に目を落とせば、時刻は6時28分。
もう開演まで猶予がない。それでも相手は沈黙を保ったままだ。
「用件をおっしゃらないなら切ります」
きっぱりと告げたときだった。


「……先生……」


風のノイズに混じって、ごく微かな声が聞こえた。
声の主に思い至るまでにわずか1秒。


次の瞬間、開演を知らせるブザーの音がフロアに鳴り響いた。






いつも拍手をありがとうございます。応援を励みに頑張ります(*^-^*)
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2 Comments

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2020/06/10 (Wed) 13:02 | REPLY |   
nainai

nainai  

a**様

こんばんは。コメントありがとうございます。
とっても嬉しいです(#^^#)

復帰作は小難しい題材を選んでしまいました💦 法律も音楽も専門外なので、どう表現したらうまく伝わるかなぁと四苦八苦しています。わかり易いと仰っていただけて本当に嬉しいです~。
さて、物語は中盤へと移ってきました。メルの真意も気になるところですよね。つくしの奮闘が続きます。そして類の活躍ももうすぐなので楽しみにしていてくださいね。

執筆作業は難航しています。時間の確保が本当に難しくて1行も書けない日があります。コツコツと頑張りますので、最後までよろしくお付き合いください。

2020/06/11 (Thu) 00:53 | REPLY |   

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