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糸の証 ~25~

Category『糸の証』
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カプリースを弾き終えると、類は休息を挟まずに再びバイオリンを構えた。
彼が次に選んだのは、対になっているこの二曲。


フリッツ・クライスラー 『愛の悲しみ』&『愛の喜び』


『美しきロスマリン』を加えれば三部作となるクライスラーの楽曲は、バイオリニストであれば一度は弾いたことのある定番の名曲だ。普遍的な曲だからこそ奏者の個性が大切だ、と彼が言っていたのを思い出す。

類の奏でる音は柔らかく変化していく。
甘やかな愛の調べを、なずなさんはどのような思いで聞いているだろう。



類が最後に弾いた曲は、私の知らない楽曲だった。
彼の影響で日常的に聴くようにはなったけれど、残念ながら私はクラシックに精通していない。著名な作曲家の作品群の一つなのだろうと推察する。

静かな曲だった。緩急のある伸びやかな音色の合間には、独特の間がある。だが静寂があるからこそ、一音一音の透明さが際立って美しい。ドビュッシーの『月の光』にも似た、ゆったりと心に語りかけてくる抒情的な一曲だった。



すべてを弾き終えて彼が構えを解くまで、私は微動だにできなかった。
放心状態だったと言ってもいい。
それくらい、類の演奏に圧倒されていた。

演奏中の凛とした表情から一転、目元を綻ばせて一礼をした類に、なずなさんは素早く立ち上がり、盛大な拍手を送った。出遅れる形で私もその場に立ち、拍手を送る。類は無造作に右手を挙げると、こちらに手招きをした。
「ステージに上がっておいで」


類が呼んだのは、私ではなくなずなさんだった。
隣を見やると、なずなさんは驚愕したように目を見開き、私の肘あたりを掴んできた。その手が不自然なほど震えている。
「先生、どうしよう…。あたし、行けないよ…」
狼狽を宥めるように、がくがくと震える右手を両手で包んでやる。
「大丈夫です。彼には何か考えがあるのでしょう」
「でも、あたし、ステージに上がる資格がないんだ」
ひどく切迫した表情で彼女は言う。

―資格って?

「ピアノにはコンクール以来触ってない。ステージに上がれるのは努力をした人だけなんだよ。あたしみたいな、音楽から逃げ出した人間が、簡単に足を踏み入れていい場所じゃない…っ」

…あぁ、と心の中で嘆息する。
痛いほど伝わってくる。

なずなさんは、今でも、こんなにもピアノを深く愛している。
でも、その愛を表す術を失ってしまったと思い込んでいる。




「そんなに神聖化する必要はないんじゃない?」
声の方を振り向けば、類が近くまで歩いてきていた。
足音がしないので気付かなかった。
「観客がいてこそ壇上には意味がある。無人だったら単なる高台だよ」
「…Rui」
「初めまして。いつかは手紙をありがとう」

なずなさんが大きく震えたのが分かった。
唇を戦慄かせて、黒衣の彼を凝視している。
次の瞬間、彼女は勢いよく頭を下げた。

「ごめんなさいっ! あたし、先生を試したんです! 今夜公演があることは分かってて、それでも先生が来てくれるならって…」
「うん。…それで? 結果には満足できた?」
「…初めて自分の気持ちを話せました。大人は誰も信用できなかったけど、先生には全部…」
「顔上げなよ。俺は怒ってないから。…もしそうだったら、ここには招待しない」


類に促され、恐る恐る面を上げるなずなさんの表情は悲痛だった。今にも泣き出しそうな顔で、長身の彼を見上げている。類は柔らかな笑みを崩さぬまま、なずなさんに質問をした。

「ピアノが弾けなくなったのはジストニアが原因?」
「…診断は受けてないけど、たぶん、そうです。…だんだん指が思うように動かなくなっていって…」
「どれくらい弾いてないの?」
「1年半…」
「じゃあ、こっちに来て。試したいことがある」

類の声は厳しさを含まないけれど、断ることはできないような一種の圧があった。なずなさんはもう一度私を見つめたけれど、励ますように頷いてみせると、心得たように彼女も頷いた。繋いだ手を離し、彼女は類の後ろについて歩いて行った。
その頼りない背中を、祈るような気持ちで見送る。




―お願い、類。


―なずなさんを導いて。
―もう一度、鈴奈さんとの絆を信じられるように。







いつも拍手をありがとうございます。
類となずなの交流を描いていきます。来週もお楽しみに。
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