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糸の証 〜26〜

Category『糸の証』
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壇上の俺達を、スポットライトが煌々と照らしている。眩い光の向こう側、観客席にとどまったつくしが不安そうな表情でこちらを見上げていた。

そこで見ていて。
心配しなくていいから。



「ここに座って」
手で示して誘導すると、俺の後ろをついてきた少女は、ピアノの前に置かれた椅子に躊躇いがちに腰を落とした。それはわずか数時間前にメルが座ったのと同じ位置だ。

「最初に覚えた曲は?」
相手はピアノの鍵盤に目線を落としたまま、間を置かずに応えた。
「『チューリップ』だったと聞いています。小さかったので、その頃の記憶はありません」
「お母さんと弾くピアノは楽しかった?」
「はい。とても…」
その両手は膝の上に置かれたままだ。鍵盤には触れようともしない。


艶やかに黒光りするグランドピアノは、ドイツピアノの最高峰、ベヒシュタイン製。透明感のある音色には定評があり、多くのピアニスト達に愛されてきたブランドだ。このピアノは、コンサートホールが完成した当初からあるらしく、年季ものだが丁寧なメンテナンスが行われていて、使用年数に比して音の状態は良かった。


「最後に練習していた曲は?」
続けて問うと、これにもすぐ返答がある。
「ショパンの『幻想即興曲』です」
「あぁ…テンポの速い曲だね。それ、好きな曲だった?」
「優勝したかったので、コンクール向けの曲を選びました。結局、ステージで弾くことはできなかったんですが…」
応える声は端的で、派手な外見が与える印象を変える。

「…そう。一番好きな曲は?」
立て続けの質問に少し怪訝そうな表情を浮かべながらも、彼女は答える。
「シューマンの『飛翔』です。コンクールで初めて優勝した時に弾いた曲でした」
「だから、特別な思い入れがある?」
「はい」


「質問を変えるけど、クラシック音楽は全部で何曲くらいあると思う?」
「…えっ。…か、考えたことないけど……1万曲くらい?」
「実は聞いた俺も答えを知らないけど、世界中の未発表作品や無名の作曲家の作品を加えると、数千万という規模の数字になると言われている。そして、現代の作曲家によって、さらに新たな作品が生み出されている」
「…そんなに」
「つまり、俺達が見聞きしているクラシックは、そうした膨大な歴史の一部に過ぎないってこと。…これから出会う音楽にも、きっと新たな発見があると思うよ」


少女はうつむく。
膝に置かれた両手が、ぎゅっと握り締められたのが分かった。


「あたしは、もう、弾けません」
「なぜ? 右手のことがあるから?」
「それもあるけど………怖いんです。ちゃんと弾けないことが」
「失敗が怖い?」
「……はい」
「どうして? 誰にでも失敗はあるのに」
「……ある人に言われた言葉が胸に刺さってるんです。一番じゃないあたしには価値がないって。……今でもピアノを前にすると、言われた時のことを思い出します」

「人の価値の有り無しは、その相手が勝手に決められること?」
「…いいえ。でも、自分でもそう思ってたところがあったから。あの家族の中で、あたしはお荷物だなって。何か一つでも、人より秀でたところがないといけない。ピアノだけは完璧じゃなくちゃいけないって。
…それに、あたし、亡くなった母のことをほとんど覚えてないんです。少ない記憶も年々薄れていって、ただピアノだけが母と自分を繋いでくれる絆だと信じてきました」
相槌を打つと、相手はそのまま話し続ける。

「10歳の時、父が再婚して新しい家族ができました。義母はいい人でしたが、どうしても家族として受け入れられなくて。父と距離を置くようになると、亡くなった母のことを話題にする機会も減っていきました。
…だけど、あたしだけは忘れないようにしようって。…いつでも、いつまでも母との絆を感じていられるように、ピアノで成果を出すことが自分の中で最優先になっていったんです」
その言葉に確信を得る。



「俺にもあるんだよ。バイオリンが弾けなくなったこと」
ぱっと弾かれたように、少女が顔を上げた。
「手が動かないといった運動性の障害じゃないけど、演奏することに自信がなくなった。…きっかけは音楽学校の講師の言葉。俺の弾く曲はどの曲も単調でつまらない。個性がないって。
…自分ではそんなつもりはなかったし、そうした評価を不当に感じてもいた。でも、じゃあ、どう表現すればいいのかを突き詰めたら、急に弾き方が分からなくなった」

「……苦しかったですか?」
「もちろん。でも、似たような悩みを抱える学生はたくさんいてね。その発言をした講師には悪意があるわけじゃない。プロの世界はもっと厳しいから、客観的な評価がそうだっただけ。試練を乗り越えられるかどうか、精神力も試されているんだ。
…状況はなかなか改善しなかった。ある時、別の講師からグループセラピーの勧めを受けた。最初は断ったけど、考え直して参加してみることにした」
「グループセラピーって…?」


パリの音楽学校に籍を置く学生達の出自は、実に多国籍だ。留学してくる学生は慣れない環境に疲弊し、総じて不安を抱えやすい傾向がある。そのサポートのために、心理カウンセラーが定期的に学校を訪問していた。グループセラピーでは悩みを共有することで、問題点を明らかにしたり、自己肯定感を強めたりすることを目的とする。


「他の学生の悩みを聞いたり、自分の話をしたりするうちにだんだん分かってきた。自分が固定観念にずっと囚われていたこと。それがバイオリンの上達を妨げていたこと」

大きな瞳がじっと俺を見上げている。瞬きもせずに。
その正体は何かと、答えを急く心の声が聴こえるようだった。

「さっき、君も使った言葉だけど、俺も絆を信じていた。バイオリンの上達が、あたかも絆を強めることと同義だと思い込んでいた。……けど、そういう気持ちで音楽に向き合うべきじゃなかったんだよね。

音楽とはすなわち、音を楽しむものであること。
聴いてくれる人のために奏でるものであること。

己の内面を見つめているだけでは、外の世界に目が向いていかない。自己満足の表現にとどまってしまう。あの時、講師にストレートな指摘を受けたことは、俺にとっていい経験だった。バイオリンを前に、心はただ自由であるべきだと悟ることができた。それが後々の飛躍に繋がったと思う。

だから、君がもう一度ピアノに向き合いたいのなら、手離してやるべきだ。
絆だとか、しがらみだとか、君の心を束縛するものの一切を」






いつも拍手をありがとうございます。
類がバイオリンを通じて信じていたのは、つくしとの絆でした。
それを心の奥に封じ込めるくだりは、『樹海の糸』第7話より。
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2 Comments

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2020/06/29 (Mon) 09:27 | REPLY |   
nainai

nainai  

ゆ****様

おはようございます。
いつもコメントありがとうございます(*^-^*)

なずなが必死に守ってきた絆。多感な少女ならではの密やかなる決意を思うと、ちょっと切ないですよね。本人としてはそれが精一杯なのですから。
つくしは、なずなのそうした思いを否定することなく、その方向性を正してあげる事を目標としてきました。一方で、類はどのようなアプローチで、なずなの心を自由にしていくのでしょうか。

いろいろな思いを込めて次話をお送りします。どうぞお楽しみに(*^^)v

2020/06/30 (Tue) 08:15 | REPLY |   

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