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糸の証 ~27~

Category『糸の証』
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長い沈黙があった。
目線を前に戻し、真っ白な鍵盤を凝視しながら、少女が問う。

「どうすれば、手離すことができますか?」
痩せた頬にひと筋の涙が伝ったのが見えた。
「心を自由にって……どうやって?」
顎先にたまった雫が、ぱたりと手の甲に落ちる。



つくしは、きっと、早い段階から気付いていたのだろう。
中学生らしからぬ派手な装いの中、手指の爪だけは何の装飾もなく、短く整えられていたことを。

弾きたいけれど、触れられない。
触れられないけれど、忘れられない。

少女の中に息づいた、強い、強い葛藤。
苦しかっただろうね。俺には分かるよ。



「さっき言ったよね。観客がいてこそ壇上には意味があるって」
「…はい」
「じゃあ、今は?」
「………?」
「ここには一人の観客がいる。
 君の行く末を真剣に案じてきた、一人の弁護士が」
ステージの真下、心配そうな面持ちで俺達のやり取りを見守っているつくし。
なずなさんの視線だけが、すっとそちらへと流れる。


「つくしのために一曲弾いてくれない?」


「…でも。……でも、手が…」
「君の右手は動く。絶対に動く。…その証拠に、震えはもう止まってるだろ?」
こわごわと開かれた10本の指は小指までが細長く、理想的ともいえるピアニストの指をしていた。
「どんな曲でもいいよ。ミスしたっていい。
 …今、大事なのはそういうことじゃない。分かるよね?」
少女の目の色が変わる。




「………あたし……弾きます」




それは力強い意志表示となって返った。
「先生のために弾きます。…聴いてもらえますか?」
観客席のつくしが、何度も頷いているのが見える。




俺は、音を立てぬようにそっとその場を下がった。
なずなさんがファーストポジションをとる。
そして、完停止。
鍵盤の上に置かれた両手には迷いがない。
深呼吸をひとつして意識を集中させ、彼女は演奏を始めた。


エドワード・エルガー 『愛の挨拶』


彼女は柔らかな調べを奏で始める。その指は丁寧にメロディラインを辿っていく。一音のミスタッチもなく、ブランクがあったとは思えないほど軽やかに。強弱や緩急の演出も素晴らしい。

序盤のホ長調、中盤のト長調を経て、再びホ長調へ。
わずか3分にも満たない演奏は、終わるのが惜しまれるほどだった。
彼女はベヒシュタインを味方につけたのだ。




「……弾けた……!」
呆然としたような呟きは彼女のもの。
演奏した当人が一番驚いているのだろう。

俺は小さく笑い、彼女に訊ねた。
「どうだった? ベヒシュタインの弾き心地は」
「最高でした…。こんなに透明な音が出るなんて…。信じられないくらい鍵盤の動きがなめらかで…」
頬には朱が差している。気分が高揚しているのだろう。


「今の演奏の間、何か考えてた?」
彼女は首を振る。
「…何も。…弾くことに夢中で、何も考えられませんでした。なんて綺麗な音だろうって感動して…」
「楽しかったよね?」
「はい!」


その返事を、待っていた。


「やっぱり、君のフィールドはここなんだと思う。さっきの演奏中、本当に嬉しそうだった」
「………っ!」
「これからも様々な苦難を経験すると思う。やめたいと思う時も、また巡ってくるかもしれない。それでも、君は、亡くなったお母さんからのギフトを大切にするべきだ」

その両手にはきっと、多くの可能性が託されている。挫折と克服を繰り返し経験しながらも、ピアノを愛する気持ちを見失わないでほしい。



「帰ってきなよ。クラシックの世界に」



間を置かず、はい、と小さく返答があった。
少女は両手で顔を覆い、背を丸めて嗚咽を洩らし始める。
頼りなげな肩を優しく抱いて励ますのは、つくしの役目だった。





ホールの外には迎えが来ていた。俺達の姿を認めると、彼は恐縮しきったようにその場で頭を下げた。千石と名乗るその男性とは、前に一度だけ、顔を合わせたことがあった。身綺麗にしてはいたが憔悴の色は濃く、彼がどれほど娘を案じていたかがありありと分かる。

つくしに支えられながら歩いてきたなずなさんは、最後につくしと目線を交わし合った後、躊躇いがちに父親の傍に近づいていった。そのまま彼に向けて頭を下げる。
「ごめんなさい。心配かけて」
「なずな…っ」
「話さなきゃいけないことが、たくさんある。……聞いてもらえる?」
「もちろんだ。どんなことでも聞こう」
その言葉に安堵の表情を浮かべたのは娘の方、感極まった顔をしたのは父親の方だった。後でつくしに聞いた話によれば、二人の間には長らくこうした会話が成立してこなかったのだという。



「お二人には多大なるご迷惑とご心配をおかけし、本当に申し訳ございませんでした。このようなご配慮をいただき、なんと御礼を申し上げていいか分からないほどです」
「今日のことは一生の思い出にします。ありがとうございました」

父親の隣に立ち、涙の乾き切らない赤い瞳のまま、丁寧に礼を述べた少女の姿は殊勝だった。
話をしてみて分かった。
この子の本来の気質は真面目なのだ。…つくしのように。
「一生って大げさじゃない?」
「いえ、大人になっても忘れません」
そう言い切る表情はとても晴れやかだった。


まだ彼女を取り巻く問題のすべてが解決したわけではない。
家族の問題がある。
学校の問題がある。
ピアノでさえ、万事上手くいく保証はどこにもない。
それでも、その先に続く未来が明るいものであってほしいと思う。



「あの…。ひとつだけ、質問してもいいですか?」
「いいよ。何?」
「さっきの演奏で、最後に弾いたのはなんていう曲ですか? 聴いたことがなくて…。できたらもう一度聴いてみたくて…」
俺は小さく笑う。知らないのも無理からぬことだからだ。
「あの曲にはまだ題名がない」
「題名が、ない…?」
「これから決める予定だから。本邦初公開だったんだよ」
「「えっ!」」

声が重なる。質問をした当人と、俺の横に立つつくしの声が。
つくしの素直な反応が可愛くて、また笑えてくる。
サプライズにしようと思ってたんだよね。目論見は成功かな。

「Ruiが作った曲?」
「そう」
「すごい…。とても綺麗な曲でした」
「そ? 気に入ってもらえたなら良かった」


秋にリリースするファースト・アルバムの最後に収録される予定の曲だった。題名はまだ付けていない。しっくりくる言葉が浮かばず、保留のままになっている。でも、そろそろ決められそうな気がする。




「では、私達はこれで失礼いたします。本当にありがとうございました」
「先生、また明日ね」
「えぇ、また明日」

別れの挨拶を述べた後、並んで出口へと向かう父娘の背中を、つくしと二人で静かに見送る。左手でそっと彼女の右手を包むと指を絡ませてくれる。

繋いだ手から伝わってくるのは優しい温もり。
この温かさを必要としている人がたくさんいることを、俺は知っている。



父娘の姿が見えなくなると、つくしはようやく口を開いた。
「…類。ありがとう。…それから、ごめんなさい」
「言うと思った。でも、後悔はしてないだろ?」
「…うん」
「なら、いいじゃん。結果オーライ」
「でも…」

不安そうに見上げてくる漆黒の瞳がひどく愛しい。
自分を責める必要なんてない。
逆の立場なら、俺だって仕事を優先する。

「今夜のあの子には、どうしてもつくしの助けが必要だった。機を見誤らなかったからこそ、あの子はもう一度ピアノに向き合い、その楽しさに出会うことができた」
「類が導いてくれたからだよ…。全部、類のおかげだよ…」
「じゃ、夫婦共同の成果ってことで」


繋いだ手に少しだけ力を込めると、ぎゅっと握り返された。
本当は、今すぐ抱きしめてあげたい。
疲れただろうって労ってあげたい。

だけど、ここはコンサートホールで。
俺達の背後には、いつ声をかけるべきかと迷ったふうの有馬が控えているから。


「帰ろうか」
「うん!」




今夜もいつものように、つくしの話を聞かせて。
俺もコンサートの話をするから。

ごめんねの代わりに、温かな愛を伝えて。
俺も惜しみなく愛を囁くよ。







いつも拍手をありがとうございます。
万感の思いをこめての第27話でした。

連載は3ヶ月目に突入しました! 2020年も折り返し地点ですね。
最終話まで今しばらくお付き合いください(*^^)v
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4 Comments

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2020/07/01 (Wed) 13:11 | REPLY |   

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2020/07/01 (Wed) 20:12 | REPLY |   
nainai

nainai  

ゆ****様

こんばんは。
いつもコメントありがとうございます(*^^*)

第27話は中盤の山場でした。つくしと類の助力を得て、なずなが長年のわだかまりをといていく過程をお送りしました。『導く』というワードにこだわってみたつもりです。なかなかに苦心惨憺の回でした…(;^_^A 
ここでは類とつくしの深い信頼関係も表しています。類の寛容さ、半端ないですw

今作は30話前後を目標にスタートさせましたが、予想通りそれ以上の話数になりそうです。もう少しお付き合いくださいね。

2020/07/02 (Thu) 00:04 | REPLY |   
nainai

nainai  

二******様

こんばんは。
嬉しいコメントをありがとうございます~(#^^#)
この二人ならでは、の展開ですよね。

今作は『未成年』のテーマソングを基に、10代の心の闇を描いていこうと話をスタートさせました。第27話では、ベヒシュタインの魅力を体感し、つくしのために演奏できる喜びに触れ、なずなが新たな一歩を踏み出します。良かった、と仰っていただけて嬉しいです。

今後は民事裁判の行方を追います。これがなかなかに難しく、執筆は停滞しています…(^_^;) つくしがこの問題をどのように解決していくのか、最後まで楽しんでいただければと思います。

2020/07/02 (Thu) 00:20 | REPLY |   

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