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糸の証 ~28~

Category『糸の証』
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今夜は特別に、と類が選んだシャンパンはルイ・ロデレールのクリスタル・ロゼだった。スタイリッシュなシャンパングラスと、注がれていく淡いローズピンクの色の調和に魅せられる。

実を言えば、お酒はあまり強くない。
でもお祝いしたい夜は、この一杯分の贅沢を愉しむことにしている。


リビングルームのソファに並んで座り、“お疲れ様”と互いの一日を労い、類とグラスを合わせた。チリンという澄み切った音がする。フローラルな香りを楽しみながらグラスを傾け、最初の一口を味わう。
ほのかに甘い果実味と、後に続く芳醇な風味と、鼻に抜ける爽やかな酸味と。驚くほど表情豊かな味わいが口中に広がっていった。

「どう?」
グラスの半分ほどをあけて、類が尋ねてくる。
「…すごく飲みやすくて、美味しい」
口当たりに驚き、残ったシャンパンを見つめる私に、彼は笑って言った。
「つくしがそう言うなら、特筆すべきヴィンテージになるかもね」


クリスタル・ロゼの送り主は類のご両親。パリを拠点に仕事をされているご両親には、入籍後も2回しかお会いできていない。お二人は事あるごとに、こうした逸品を私達の元に届けてくださる。
テイスティングをしてほしいっていう意味合いもあるんだよ、と彼は軽く言うけれど、この1本がどれほどの価値を持つ品なのかを私は知っている。グラスの残りをゆっくりと飲み干すと、類はもう少し飲む?と二杯目を注ぎ足してくれた。



類とはたくさんの話をした。

デュオ・コンサートは素晴らしい完成度をもって、無事終幕を迎えたそうだ。
観客席からの鳴りやまない喝采に、類は大きな手応えを感じたのだという。

私が会場から姿を消したことについて、フランツさんは寛大な理解を示してくださっていた。すでに仙台を離れたという彼に、別れの挨拶すらできなかったことをひどく申し訳なく思う。

一方で類は、ロベールさんのコメントについては言及を避けた。私もそこにはあえて触れなかった。きっと彼女には大いに呆れられてしまったことだろう。それこそ当然の反応だと思う。



私は、なずなさんの話をした。類にしかできない手法で彼女を導いてくれたことに、改めて謝意を伝える。すると、類はこう応えた。

「推測の域を出ないけど、あの子の不調は、ジストニアが原因じゃなかったかも」
「えっ。…そうなの?」
「長時間の練習で指に過剰な負荷をかけていたようだし、実際に不随意運動も出ていたんだろう。だけど、それはジストニアでなくても、精神的なストレスが引き金で起きることもある」
「うん…」
「あの子はピアノを弾くことで母親との絆を確かめていた。演奏の出来・不出来がものすごく重要なウェイトを占めていた。失敗は許されないと思う気持ちと、指の不調という相反する現状に、自分はもうダメだという強い自己暗示にかかって、弾けなくなっていった可能性の方が高いのかなって」
「…カウンセラーみたいだった。さっきの類」
「あれは見様見真似。プロのセラピーを見たことがあったから。…だけど、単に思い出してほしかったんだよね。あの子に、ピアノを弾く楽しさや喜びを」


類は膝の上で両掌を上に向け、じっと視線を注ぐ。
「俺でも思うことがあるよ。突然、指が動かなくなったらどうしようって。俺達の仕事はそうした疾患とは切って離せない関係だから」
「うん…」
「もし、いつかバイオリンが弾けなくなっても、何らかの形でクラシック音楽に関わる仕事を続けたいと思ってる。…いいかな?」
「それはもちろん!」


広げられたままの彼の左掌を両手でそっと包む。
どうか、類が、素晴らしい演奏をいつまでも続けていけますように。
彼の心が望むように、ただ自由に、伸びやかに。
そう願いを込めて。

壇上の彼は、別世界の住人のようだった。
彼の放つ美しい煌めきは、今も瞼に焼き付いている。


もとより、彼のために私ができることは限られている。だけど今日は、その最低限のことさえできなかったことが思い出されて、胸を暗く塞ぐ。
類は謝らないでいいと笑う。彼はいつでもそうだった。
私は類の優しさに甘えている。
甘えることを際限なく許されている。いつでも。



でも、それは、とても不公平な関係なのではないだろうか。



「…どうした?」
その声にハッとすると、ごく至近距離で類が私の顔を覗き込んでいた。
美しい鳶色の瞳が、心を見透かすように優しく和む。
「どうせ、ドタキャンのこと、ウジウジ考えてたんだろ?」
「ウ、ウジウジってね…」
「眉、ハの字になってるし。…気にしないでって言ってるのに」

類の声は軽く、微塵にもこちらを責める気持ちがない。
それが分かるからこそ、余計に心苦しい。
「だって…。どうしても気にしちゃうよ…」
はぁ、と吐き出した息が熱い。酔いが回ったのか、頭の芯がぼんやりする。



「おいで」
類に促されるまま座り直し、彼の脚の間に腰を落とす。
背後から伸びてきた両腕に抱きすくめられ、彼の匂いと温かさに包まれると、己の不甲斐なさが痛切に身に染みた。今の今まで我慢してきた涙がポロポロとこぼれていく。類は私の肩に顎を乗せてぴったりとくっつき、幼子をあやすように私の体をゆらゆらと揺らした。

「泣かれると、俺も悲しくなる」
「ごめん…。泣くつもりじゃ…」
「つくしは気持ちが優しすぎるんだよ」
「……優しいのは類の方だよ。……私、妻失格だもん。……類に我慢ばかりさせて」
「そんなことないのに。もっと甘えなよ」


今夜の一件だけではない。
私の環境を変えないように仙台での暮らしを選んでくれたこと。
仕事に専念するため、子供を望むのはまだ先でいいと言ってくれたこと。
この8ヶ月間の結婚生活の中で幾度となく感じてきた、類の優しさと気遣いと労りと。感謝という言葉だけでは、申し訳ないという気持ち程度では、全然足らない。

アルコールによる酩酊のせいか、感情の揺れは抑えが利かなかった。
彼への想いが胸の奥からとめどなく溢れ、涙に代わって出ていく。



「泣いてる顔もかわいいけど、笑ってる顔の方が数倍かわいいよ」
耳朶をくすぐる、甘い響きの声。

「“ごめんね”の代わりに、“愛してる”って言ってよ」
首筋のカーブに沿って落とされていく、柔らかな口づけ。

「俺の気持ちは揺らがない。
 …あの時、生半可な気持ちで“永遠”を口にしたつもりはないから」




―あの時。

8年越しの再会を果たした夜。
類は私を抱きしめ、ありったけの愛を伝えてくれた。

『俺達、もう一度始めよう? 
 …今度こそ、永遠を約束するから』

彼の想いに応えたいと思った。強く。
そして私も誓ったのだ。
全身全霊をかけて類を幸せにする、と―。





「…愛してる…」
その言葉でさえ、想いのすべてを表現できない気がするけれど。

「…愛してるよ…」
その言葉でしか、この気持ちを伝えられないから。

「俺も愛してる」
そう言って彼は笑い、肩越しのキスをくれた。







いつも拍手をありがとうございます。
類の前でなら弱さを見せることができるつくしです。
次話は類視点です。来週もお楽しみに。
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2 Comments

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2020/07/03 (Fri) 19:17 | REPLY |   
nainai

nainai  

a**様

こんばんは。コメントありがとうございます!
“好き”っていうのは嬉しい言葉ですね。元気が出ます~(#^^#)

つくしから類への気持ちが溢れる第28話でした。最後の数行にぎゅぎゅっと詰めています。普段はキリッとしていても、類の前のつくしはかわいい女性なんです。次話からは類視点で、つくしへの思いを丁寧に描いていこうと思います。楽しみに待っていてくださいね。

中盤の山場を越え、残るは裁判の行方です。執筆は難航していますが、最後まで手を抜かずに書き尽くそうと思います。よろしくお付き合いください(*^^)v

2020/07/03 (Fri) 23:33 | REPLY |   

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