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糸の証 ~29~

Category『糸の証』
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有馬と数名のスタッフに後処理を頼み、コンサートホールを後にする。
帰宅時刻は午後11時を過ぎていた。

つくしの表情は徐々に沈んでいった。
話しかければ明るく振る舞うけれど、自責の念に囚われているのが伝わってくる。
一人になれる時間が必要だろうと思い、入浴は別々にと提案した。
案の定、彼女は浴室に籠ってなかなか出てこなかった。


つくしが俺との約束より仕事を優先したことは、内容の緊急度からも無理からぬことだった。そのことを十分に理解しているし、責めるつもりもない。
むしろ対話を通じて、悩める少女の自立と再生の瞬間に立ち会い、妻の仕事の一助となれたことを嬉しく思うくらいなのに。
それでも彼女には、一連のことを自分に都合よく考える器用さがない。


湯上がりのつくしにシャンパンを勧める。自制心の強い彼女をリラックスさせるため、ややアルコール度数の高いボトルを選んでおいた。
俺達はグラスで乾杯をし、今夜の出来事を話し合い、共有する。
口当たりのいいクリスタル・ロゼは好みに合ったようで、つくしはいつもより多めの量をきれいに飲み干した。


ふと、つくしの動きが止まり、考え込むような様子になる。
どうした?と問えば、眉尻を下げた彼女と目が合う。頬には赤みが差し、漆黒の瞳はしっとりと潤んでいた。そろそろ頃合いかな、と思う。
近くに引き寄せ、小さな背を包むように後ろから抱きしめると、つくしは声を上げずに泣き出した。



気にしなくていいよって言っても、気にするんだろ?
あんた、そういう性格だもんな。

だったら苦しくないように、負の感情は早く吐き出させてあげる。
我慢しないでいいよ。
でも、泣くのは俺の腕の中だけで。



彼女の口から『妻失格』という言葉が飛び出してくる。
涙ながらにそんなことを言うあたりも、俺にはかわいくて仕方ない。

合格も失格もないよ。俺の妻はつくしだけだから。
誰もが振り返るような美しさやセックスアピールを備えているわけではない。
だけど、俺にとっては彼女だけが特別だ。


社会の荒波に揉まれても、人間の持つ二面性や醜さを知っても、彼女の芯は真っ直ぐ伸びている。裁判では敗訴も経験し、望まぬ結果に悔しい思いをしながらも、それでも前を向くことを諦めない。
いつも自分以外の誰かのために一生懸命で、我慢強くて、心優しい。

完璧じゃなくていい。
不器用でもいい。
つくしの丸ごと全部を、愛してるんだ。




泣いてる顔もかわいいけど、笑ってる顔の方が数倍かわいいよ。
“ごめんね”の代わりに、“愛してる”って言ってよ。

俺の気持ちは揺らがない。
…あの時、生半可な気持ちで“永遠”を口にしたつもりはないから。




細い体を抱きしめ、そっと言葉をかける。
感情の昂ぶりが静まるまで、彼女を泣くに任せておく。

やがて俺の言葉に呼応するように、つくしが呟いた。
愛してる、と。

まだ涙の止まらない彼女の、掠れた声がいじらしくてどうしようもない。
俺も、と応えて彼女を振り向かせ、その肩越しにキスをした。




重ねた唇はふんわりと柔らかい。
浅く歯列を割るとロゼの果実香がして、彼女の熱い舌が触れた。
それでも、慣れない体勢でのキスは長続きしない。

ふっくらとした下唇を甘噛みして距離をあけると、つくしからはごく微かな吐息が洩れた。黒曜石のような瞳にはまだ薄く涙の膜が張っていて、瞬きすれば透明な雫がこぼれ落ちる。それがとても綺麗だと思う。


「…類…」


自分を抑えられなくなるよ。
そんな声で呼ばれたら。そんな瞳で見つめられたら。
せめて涙が渇くまでは理性を保とうと思っているのに。

いつまでも無垢なままの心を、優しく包んで守ってあげたい気持ちと、
本能のままに彼女を抱いて、乱して、共に深い快楽に溺れたい気持ちが、
強く、強く鬩ぎ合う。



―でも、やっぱり今は笑顔が見たいな。



ふくれあがった劣情を抑えこんで、俺は右手を伸ばす。
小ぶりの鼻をきゅっと摘まむと、彼女からは言葉にならない声が洩れた。
「……っ!」
「懺悔タイム終了。…泣いてスッキリしたろ?」
指を離して涙を拭ってやると、そこには困ったような笑みが浮かんでいて、こくりと首が縦に振れた。



「では、そろそろ俺と愛を語らいませんか?」



パチパチッと大きな瞳が瞬きをする。
一拍の間を置いて、はい、という控えめな答えが返った。
照れ笑う彼女が愛しくてたまらなくなって、もう一度、深く抱きしめた。


この温かさを、俺はいつだって求めている。







いつも拍手をありがとうございます。
類のつくしへの想いが溢れる第29話でした。

次の第29.5話はパス付き記事です。ちょっと甘めに仕上げたいなぁ、と自分なりに頑張ってみたつもりなのですが…💦 そうした展開が苦手な方は、飛ばしていただいても物語の進行には差し障りありません(*^^)v



コロナ禍が続いていますが、大雨による災害も警戒すべき時期になりました。九州は私にとって縁の地です。熊本南部の被害状況が分かってくるにつれ、胸が強く痛みます。どうか、これ以上の被害が出ませんように…。
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