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糸の証 ~30~

Category『糸の証』
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翌日、先にベッドを抜け出したのはつくしの方だった。声をかけられて起き、俺がシャワーを済ませる頃には、朝食の準備が整っていた。つくしの表情には持ち前の明るさが戻っていた。そのことに安堵し、今日の予定を話し合う。

午後になり、千石邸へと赴くつくしを玄関で見送る。
ほどなくして俺も外出し、市内の練習スタジオへと向かった。希少価値の高いアウローラの保管には、盗難防止の警備システムが必要なので、弾きたい時はこちらからスタジオに出向く必要がある。マンションの防音室には学生時代から使用している愛用品も置いてあるが、音色といい、響きといい、やはりアウローラには敵わない。

いつも通りの手続きを経てバイオリンを受け取り、スタジオ内に入る。
肩慣らしにスローテンポの曲を弾く。自分が奏でる旋律をどこか遠くで聞きながら、俺は昨夜の公演のことを思い出していた。



*****



公演が始まってすぐ、つくしがいないことに気づいた。壇上での挨拶の折、ふと見上げた2階席にはフランツの姿しか見えなかった。しばらく経っても席に戻る様子はなく、彼女はもうここにいないのだと判じるに至った。その行動に驚きはしたが、動揺はしなかった。

公演は二部構成にしていた。幕間になり、控室で有馬から事の次第を聞く。つくしは何らかの事情でホールを離れていた。開演直後、慌てた様子でエントランスホールを出ていく女性の姿が受付スタッフに目撃されている。容姿の特徴からして彼女に間違いなさそうだ。

有馬はフランツからの伝言を預かっていた。つくしは電話をかけてくると言って開演直前に離席した、と。そこで不測の事態が起きたのだろう。連絡を取りたいところだが携帯電話はクロークルームに預けたままだ。加えて休憩時間には限りがある。


つくしの不在を聞いた時のメルの表情は険しかった。
“信じられない”と小声で呟いた後、彼女は言った。

『ルイの奥様は、ずいぶんと仕事熱心なのね』
『あぁ、責任感が強いんだ』
『そうだとしても、時と場合は選ぶべきじゃなくて?』
メルの視線は俺を射抜く。声は怒りに満ち、ひどく尖っていた。
『公私はきちんと分けるべきよ。あなたに対してとても失礼だわ!』

俺の頭の芯は冷静で、そんなメルの怒りをどこか他人事のように見ていた。
彼女はそれを咎める。
『どうして、あなたは笑顔でいられるの?』
『メルが俺の代わりに怒ってくれてるからかな。…さて、もう後半が始まる。俺の事情で集中力を乱して悪かったね。気持ちを入れ替えていこう』
そう言うと、メルは瞬時に表情を改めた。


彼女はプロだ。感情コントロールなど容易いこと。
どんな時でも、観客のために最高のパフォーマンスをする。
そこに個人の事情など考慮されない。


俺達はそういう世界にいる。




公演は喝采を博して終了した。これ以上はない出来栄えだったと思う。
控室に姿を見せたフランツは満面の笑みで祝辞を述べた。演目や構成への評価も概ね高かった。

『アウローラの秀逸ぶりは言うまでもないが、類は表現力がとても豊かになったね。メルの安定感は非の打ち所がないよ。素晴らしいコンサートだった。無理をおしてでも来日してよかったと思う』
『ルイは欧州に戻って活動する気はないのかい? 今後の共演を切望するよ』

銀髪の紳士の熱い要望には明確な回答を避けた。
しばらく欧州に遠征するつもりはない。
彼は俺の思惑を理解しているかのように二度、三度と頷き、優しく笑んだ。

『君の音楽人生はまだ長い。多くの人と共演し、経験を積みなさい。それがアウローラを託された者の使命だろう。ファースト・アルバムを楽しみにしているよ』
『ツクシによろしく伝えてくれ。楽しい話をありがとう、と』

予定を変更し、今夜のうちに東京に戻ることにした、というフランツとはその場で別れる。次の再会はいつのことになるのか分からない。
固い握手を交わしながら、その時までに今より成長した自分でいられるよう、更なる飛躍を彼に誓う。



つくしとは連絡がついた。予想通り、彼女は例の中学生と一緒にいた。
千石なずなさんへは、特に悪感情は抱いていない。つくしがそれを望まないだろうから。相手は未成年。それに非常にセンシティブだ。

つくしの端的な事情説明から、俺も一度会ってみたいと思うに至った。
何か力になれるかもしれない。

俺は彼女達をホールに呼び寄せた。最前列の席でその到着を待つことにする。もともとホールは午後10時までの期限で貸し切りが許されている。その期限を1時間延長してもらえるように、有馬には交渉を頼んでおいた。


つくしと約束したように、最後の一曲を彼女のために弾きたいと思っていた。
公演では披露しなかったその曲には、まだ題名がない。
自宅や練習スタジオで演奏するのでは物足りない。大きなホール内にアウローラの音色を存分に響きわたらせ、最高の数分間を彼女に贈りたい。




座席に深く凭れて頬杖をついていると、衣擦れの音がしたので俺は目を開けた。それは待ち人ではなく、私服に着替えたメルだった。彼女とはもう最後の挨拶を済ませていたのだが…。

『お疲れ様。ルイ』
『…あぁ。まだ残っていたんだね』
『少しあなたと話がしたくて。アリマさんにここだと聞いて来たの』
メルは二人分の座席を空けて腰掛けた。その視線はステージを向いたままだ。
『それで、話って?』
問いかけても、メルはすぐに応えなかった。


『……どうして、彼女なの?』
充分な間をおいて、メルは問う。
『さっきは幕間だったから話せなかった。あなたは笑っていた。演奏も完璧だった。でも私は納得できてない。……どうして、ルイは彼女を選んだの? 音楽に関しても素人で、あなたより仕事を優先するような人なのに』
俺は苦笑するしかない。指摘に誤りはないからだ。
『妻に公演を見てもらえなかったことは残念だったと思う。でも不測の事態だったんだ。担当している案件で、どうしても彼女の力が必要とされていた』
『あなたは優しすぎるわ』

メルは引かない。より深く踏み込んでくる。
これまでの境界線を越えて―。

『あなたが帰国後すぐ結婚した、とフランツから聞いたときは耳を疑ったわ。奥さんがどんな女性なのか会ってみたくて仕方なかった。シズカのような素晴らしい人だと思っていた。でも、想像とは違って…』
『メル!』
鋭く話を遮る。その続きにはつくしへの批判が含まれると察したから。
彼女の口からそうした言葉は聞きたくなかった。聞けば、俺達の関係の均衡は崩れていくだろう。相手が誰であろうと、つくしに対する悪意は看過できない。


『妻は自分の職務を全うしただけだよ』
『これからもそれを許すの?』
『あぁ、許す』
返答は淀みない。
『逆の立場なら俺だって仕事を優先する。それは俺達夫婦の間に了承があれば問題ないことだろ? どちらが抱える仕事にも責任という重みがある。そこに優劣はない』
努めて、感情的な口調にはならないようにしたつもりだ。
『俺のために怒ってくれてありがとう。メルのことはずっと同志だと思っている。深く感謝している。……でもこれ以上、この話はしたくない』



メルが俺に向ける視線の中に、これまでとは違う感情を見出したのはいつからだったろう。2週間前に再会した時にはそうは思わなかった。それでもスタジオでの練習を重ねていくうちに何かが違うと思い至り、俺は困惑していた。

決定的になったのは、メルにつくしを紹介した時。メルはいつになく高圧的な態度をとった。フランツもそのことに気付いていたようだ。
つくしがポーカーフェイスで予防線を張ったのを見て、非常に申し訳なく思った。そんな冷たい表情を彼女にさせたかったわけじゃないのに。

デュオ・コンサートは大成功だった。メルの貢献に依る部分は大きい。
今夜の彼女は、本当に素晴らしいパートナーだった。
でも、それは仕事上でのことだ。
メルのことを仲間以上の存在として意識したことはない。一度として。
そして、今後もその認識が変わることはないと断言できる。



『………帰るわ』
メルは短く呟き、おもむろに立ち上がった。俺が横を見やると、彼女はもう背を向けていて、どんな表情でそこに立っているのかは分からない。
『でも、覚えていて。…不公平な忍耐はいつか破綻するものよ』
『それは一般論? 経験談?』
『さぁ…どうかしら』
『心に留めておくよ。ありがとう』
メルは前に歩み出していく。

『さようなら。ルイ。…また会う日まで』
『活躍を祈ってる。元気で』

それが、彼女と交わした最後の会話だった。
メルは一度も振り返ることなく、足早にホールを出ていった。



*****



アウローラを思いのままに弾きながら、メルの問いかけを反芻する。
『どうして、彼女なの?』

奇しくも、つくし本人からも同じことを問われたことがあった。
8年ぶりに再会した夜のことだ。
彼女も言った。『どうして、あたしなの?』と。


メルとの出会いは5年以上前に遡る。彼女はいわゆる天才気質で、ピアノの演奏技術やオーケストラへの同調力は群を抜いていた。自分に厳しく、完成度に妥協を許さない姿勢には尊敬の念を覚えた。
彼女が静の同級生だと知ったのは雑談の中でだったと思う。共通の話題を得たことで、俺達はよく話をするようになった。女性らしさを前面に出さないクールな性格も、俺には好ましかった。

メルは友人であり、同志である。
だが、それは彼女に限ったことではない。あの頃、交響楽団に所属していた他の仲間達とメルは同列であり、それ以上でもそれ以下でもない。もし彼らの誰かが困難に直面していたら、俺は自分にできる限りの助力を行うだろう。



俺には、つくしと離れていた長い歳月があった。
その間、多くの出会いがあった。中には好意を寄せてくれる女性もいた。
でも、誰に対しても気持ちは揺れなかった。
結局は、それが答えなのだと思う。



俺の心を自由にできるのも、束縛できるのも、つくしだけ。
高校時代から変わらず、ずっと。



不平等なんて気にしない。不公平も関係ない。
融通のきかない、頑迷ともいえるほどの彼女への思慕が、強い煌めきを放ちながらここに在って、俺を俺らしく彩ってくれるんだ。







いつも拍手をありがとうございます。
コンサートの舞台裏をお送りしました。この後、第24話が続いていくのです。

報告のタイミングを逸してしまっていたのですが、7/7にカウンターが200,000を超えました。たくさんのご訪問ありがとうございます。とても嬉しく思っています(#^^#)



豪雨災害地域にお住まいの皆様には心よりお見舞い申し上げます。少しずつでも着実に復興が進むことを願っております。梅雨明け宣言はまだ遠そうです。引き続き、大雨には警戒していかねばと思います。
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6 Comments

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2020/07/13 (Mon) 06:54 | REPLY |   

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2020/07/13 (Mon) 11:31 | REPLY |   

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2020/07/13 (Mon) 11:38 | REPLY |   
nainai

nainai  

二******様

こんばんは。コメントありがとうございます~(*^^)v

おぉ! メルの言い分も分かってくださいますか。そう仰っていただけると嬉しいです(*^^*) 類は、つくしの仕事への理解を示して反論しましたが、そうした正論は抜きに、なぜ類を一番にできないのかを歯痒く思うものですよね。恋する女性としては…。

つくしにはつくしなりの事情があるのですが、類に偏向した意見が存在してしまうことは仕方のないことです。だって類ですしw
だからこそ第29.5話の『この手を離さないで。どんな時も、それだけは迷わないでいて。』という願いに繋がっていく、というくだりでした。

物語はいよいよ終盤です。最後までよろしくお付き合いくださいませ。

2020/07/14 (Tue) 00:20 | REPLY |   
nainai

nainai  

ル*様

こんばんは。コメントありがとうございます(*^-^*)

クラシック音楽については素人なのですが、なんとなく良い雰囲気が伝わってくれたようでホッとしています。第29~30話の3話分はすべて類視点なのですが、ここでは彼の深い愛情を表現することをとことん追求してみました! 丁寧だと仰っていただけてとても嬉しいです(*^^)v

『糸の証』の続きもすでに構想があります。連載として形になるにはまだまだかかりますが、ゆるぎない二人の絆をこれからも描いていけたらなぁと思います。

コロナ禍に加えて豪雨災害…。気持ちが塞いでしまうようなニュースが多い2020年ですが、明けない夜はないと信じて、日々を暮らしていかねばと思います。どうぞル*様もご自愛ください。

2020/07/14 (Tue) 00:45 | REPLY |   
nainai

nainai  

ゆ****様

こんばんは。コメントありがとうございます(*^-^*)
お祝いの言葉もありがたく頂戴しました。これからも地道に頑張っていきます!

前作、今作でも触れているのですが、フランスでの修業時代の類はそれなりに苦労を重ねています。交響楽団に入ってからは、よりグレードの高い演奏技術を要求されたでしょうし、周囲との同調性を重んじる必要がありました。その時の経験が今の彼を形作っています。メルとの会話に類の成長を感じ取っていただけたなら何よりです~(#^^#)

さて、物語はいよいよ終盤です。執筆はかなり難航していますが、ようやく最終話までの道筋が見えてきました。よろしくお付き合いください。

2020/07/14 (Tue) 01:19 | REPLY |   

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