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糸の証 ~33~

Category『糸の証』
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棚橋さん、門脇さんの話は、どちらもなずなさんにとって有益な情報だった。質問を交えながら彼女達の話を聞き、それが終わる頃には午後7時半を回っていた。

事務所までは自転車で来たという少女達を、1階に下りて見送る。空はすっかり暗くなっていた。風はなく、昼間の熱気を残して外気は生ぬるい。梅雨入りは間近だ。
「遅い時間なので、気を付けて帰ってくださいね」
「うん。先生、またね」
「失礼します。牧野先生」
自転車の群は二手に分かると、あっという間に街の雑踏に溶け込んでいった。


事務所のある2階に上がって自分の席に戻ると、宮川さんと佐久間さんはすでに退社していた。隣席の朝比奈先生は帰り支度を済ませていたが、私の戻りを待っていてくれた。そして屈託なく笑う。

「証言、ほぼ揃ったわね。お見事!」
「紗南さんとお母様のおかげです。彼女の行動力に驚かされました」
「頭のいい子よね。将来有望だわぁ。…さて、相手はどう出てくるかしら」
反訴の訴状はまだ相手方に届いていないだろう。
問いの答えは来週に持ち越しになる。
「裁判が始まるまでに、話し合いができればいいのですが…。真相が公になることで深い傷を負うのは、佐竹田さん側です」
私がそう言うと、朝比奈先生の表情が少しだけ曇る。

「そうねぇ…」
一拍をおいて応えた口調は、いつも通りきっぱりとしていた。
「でも、それが裁判というものよ。原告にだってリスクは付き物なの」
バッグを手に取り、朝比奈先生は颯爽と立ち上がる。
「そこは鴫谷先生の判断力に任せるとしましょうよ。…お疲れ様!」
「お疲れ様でした。遅くまでありがとうございました」
深々と頭を下げると、彼女はひらひらと手を振って事務所を出ていった。



朝比奈先生を見送ってしまうと、室内に残っているのは澤田先生だけになった。基本的に彼の帰りは遅い。今日は海藤先生も私用のために退社していて、的さんはお休みだ。二人きりの状況ではあるけれど、だからと言って気づまりではない。
私は先ほどの面談内容をレポートに纏め、ボイスレコーダーのデータのコピーをとることにした。

作業を始めて少し経った頃、ふいに澤田先生の声がした。
「牧野」
「はい」
呼びかけに応じて顔を上げると、声を発した当人はパソコン画面から目線を外していなかった。忙しなくキーボードを打つ音が響く。その手を止めずに彼は言った。

「相手側に温情を示すな。…さっき朝比奈先生が言えなかったことだ」
「…はい」
「真偽はともかく、相手に訴えられたことによって、千石家はすでに精神的な損害を受けている。今後、訴えの取り下げがあったとしても、一度そうした状況に置かれたことは記憶から消えないだろう」
「……はい」
「ブレるなよ。依頼人の利益が第一だ。中学生同士の諍いとはいえ、裁判にまで発展した以上、大団円というわけにはいかないんだ。反訴にしたって証人達の年齢が若すぎるし、証言だけでは決定的な証拠には欠ける。どんな裁判でも“絶対”はない。それなのに相手側の事情まで考慮したいなんて、ぬるい考えは今すぐ捨てろ!」


澤田先生のストレートな物言いはいつものことだが、今日は語調まで厳しかった。それに圧倒されて思わず黙り込む。…だが、彼の言うことは尤もだ。

私は千石堂の顧問弁護士であり、依頼人は千石社長だ。彼には、なずなさんの名誉回復を望まれている。多角的な視点から証言を集めるにつれ、佐竹田家の家庭内における歪みや、真尋さんの心の闇が徐々に明らかになってきた。
澤田先生が見抜いたように、私は躊躇しているのだ。
この暗部を白日の下に晒してしまうことによって、佐竹田家が瓦解するかもしれないことを―。


「ありがとうございます。いつも的確なアドバイスをくださって…」
真摯な気持ちで礼を述べる。
澤田先生は正しい。
感情に流されることなく、依頼人のために最善を尽くそうとする。
「ご指摘があったように、自分の中には迷いがありました。考えを改めます」
今度はトーンを抑えた声が返る。
「言っとくが、俺はお前のやり方全部を否定しているわけじゃない。問題児だと目されていた千石なずなが、この短期間で気持ちを立て直すことができたのは、牧野が担当だったからだ。俺なら難しかっただろう。…だからこそ、詰めは誤るな」
「…はい」



******



眼下に広がるのは仙台市の街並み。線上に並ぶネオンサインが綺麗だ。
高台に立つマンションのベランダからは夜景が一望できる。吹き付ける風は、地上で感じるより体感温度が低い。ベランダの柵に両肘を乗せて凭れ、湯上がりの体を冷ましながら、今日何度目かのため息を吐く。

澤田先生の言葉がまだ耳の奥に残っていた。
その指摘を尤もだと思いながらも、これからの方針に自信が持てずにいる。
上を見上げても、光害のために空は白んで星は見えづらい。欠けた月からは光も届きにくい。茫洋たる虚空に向けて、もう一度ため息を吐いた。


「…ここにいたんだ」
室内の明かりがベランダ側に差し込む。薄く開けていたガラス戸の向こうから類が姿を見せた。
夕食後、類はバイオリンの練習のため防音室にこもっていた。明後日には名古屋への出張が控えている。花沢物産の関連会社が主催するチャリティーイベントに、彼はゲストとして呼ばれている。その後、東京を経由して別の仕事をし、仙台に帰ってくるのは木曜日の予定だ。

類は隣に並び、私と同じように柵に両肘を乗せた。
…不思議だな。彼がここにいるだけで、空気まで優しく変わった気がする。
「姿が見えないから、一瞬焦った」
「あ、ごめん。夜風に当たりたくなって…」
「…どうした? また落ち込み中?」
「ちょっとね。…でも、大したことじゃないよ」
詳細までは話せない。彼もそれは心得ている。

「悩みの多い仕事だね。弁護士ってのは」
「うん…。でも、それは私の力量の問題かも…」
ため息をつきそうになるのを、すんでのところで堪える。
「依頼人の利益のためにベストを尽くすべきなのは、分かってる。…でも今回の件は、相手も中学生なの。今後への影響を思うと…」
「非情になりきれない?」
「…考えが甘いね。私。…もっと割り切れたらいいのに」


これまでの佐久間さんの調査報告。
今日の棚橋さんと門脇さんの話。
そこで、ある可能性に気付いてしまった。そのことはまだ誰にも話していない。相手を確実に追い込むための次なる一手を、打ってしまっていいのかを迷っている。


類は言った。
「俺だったら迷わない。相手に反論を許さず、自分達が勝つことを優先する」
「うん…」
「それがいい方法かは分からないよ。勝つことと正しいことはイコールじゃないから」
「そうだね。…行き着くのは結局、そのジレンマなのかも」
「でも、勝負のカードはできるだけ多い方がいい。あとは切り方次第。…そうすれば、切り札は見せずに済むかもしれない」
「うん…」
そのまま沈黙が下りた。無言のまま、二人で夜景を眺める。



ふと、肘が軽く触れた。
それに気づいて類を見上げると、穏やかな微笑がそこにある。
「そろそろ部屋に戻らない?」
「…そうする」
「明日、仕事は?」
「今週はリフレッシュ休暇にするつもり」
「それがいい。戦士にも休息は必要だよ」

明日の夕食は牧野家に招待されている。類がコンサートに招待してくれたお礼にと、両親が祝賀会を催してくれることになっている。ママの手料理を食べるのは久しぶりだ。このところ忙しくて、実家へも足が遠のいている。

「…そういえば、進は元気? こっちには全然帰ってないよね」
「盆休みには会えるよ。出張だらけで大変だ、ブラック企業だってボヤいてた」
「そんなにひどいなら、会社の実態を調べさせようか?」
「うぅん。愚痴だから本気にしないで」

花沢の持つ情報網にかかれば、おそらく大抵の情報は難なく掌握できるだろう。
だけど、それは禁じ手だと思うから。


無造作に差し出された彼の手を取る。夜風に冷えて、指先まで冷たい。
「…ごめん。すっかり冷えちゃったね」
「じゃあ、温めてもらおうかな」
ね?と小首を傾げる彼の仕草は、いつになく小悪魔的で可愛かった。






いつも拍手をありがとうございます。
弁護士稼業3年目のつくし、まだまだ新米です。澤田先生や朝比奈先生のような割り切った考え方ができません。葛藤の末につくしが選ぶ方針とは?
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