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糸の証 ~42~

Category『糸の証』
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その日は、8月末にしては珍しく猛暑となる予報が出ていた。
見上げる空は抜けるような青さだ。

街路樹の木陰の恩恵があっても茹だるような暑さだった。何度もため息をつき、首元の汗をハンドタオルで拭う。東北の短い夏を謳歌するように、頭上では蝉が大音量で鳴いていた。待ち合わせの場所まではもう少し。あの角を曲がれば店の看板が見えてくる。

自動ドアの向こう側は別世界だった。ひんやりとしたエアコンの風が、火照った体の表面を急速に冷ましていく。それでも内側にこもった熱のせいで、噴き出してくる汗が止まらない。

「いらっしゃいませ。何名様でしょうか」
応対してくれたウェイトレスに待ち合わせのことを告げるよりも早く、奥の方から私を呼ぶ声がした。
「先生! こっちこっち!」
窓際の席から通路側に頭を出し、ひらひらと手を振っている少女が目に留まる。ウェイトレスに会釈し、私は奥の席へと向かった。


「すみません。今回も遅れてしまって…」
今日は事務所を出る直前にかかってきた電話の応対で、15分ほどの遅刻になってしまった。前回の時も、同じような理由で約束の時刻に遅れたことを思い出し、少女に謝罪する。相手はそれを気にしたふうもなく、卓上に広げたテキストを示して見せた。
「別にいいよ。勉強してたし。それに先生が忙しいこともちゃんと分かってるから」
「今はどの辺りを勉強しているんですか?」
「やっと中3の単元まで追い付いたの! 新学期からは通常の授業についていけると思う」
「そうですか。よく頑張りましたね」
「でしょー?」
そう言って、なずなさんは溌剌とした笑顔を見せた。


例の話し合いの後、月に1回の面会を希望したのはなずなさんだった。面会は今回で3回目になる。海藤弁護士事務所近くのカフェでティータイムを設け、1時間ほど彼女の近況を聞くのが常だった。


結局、彼女は公立中学校へは戻らなかった。
佐竹田真尋さんとのトラブルで一方的に加害者だと判じられたことについては、中学校の教諭達から正式な謝罪を受けたという。真尋さんはすでに転校していて、クラスメイト達にも経緯を説明してある、と担任の教諭は話した。

なずなさんは学校側の謝罪を聞き入れたものの、自分に対する悪いイメージが定着した場所に戻ることへはやはり拒絶を示した。加えて、中学1年の秋以降、勉強らしい勉強をしてこなかった彼女が学校に戻ったとしても、授業についていけるはずもない。千石社長は教諭達と話し合い、公立中学校に籍は置いたまま、なずなさんをフリースクールへ通わせることを決めた。

フリースクールとは、何らかの事情によって通学ができなくなった学生が利用する教育機関の総称である。但し、学校教育法上の公的な学校としては認められていないので、フリースクールへの通学が在籍している中学校での出席扱いとなるかどうかは、在籍校の校長が判断することになる。
なずなさんにはそれが認められ、日中はフリースクールに通学しながら、夜間は個別指導の塾へも通い、約2年分の学習の遅れを取り戻すことになった。

復学の意志を固めたなずなさんの進歩には目覚ましいものがあった。ひとたびスイッチが入ると、寝食を忘れるほどの集中力を見せた。私立中学の受験を経験したこともあり、勉強のコツはしっかり掴んでいて、中学1年、中学2年の学習内容を次々に習得していった。
フリースクールのクラスでは親しい友人もできたようだ。自身のつらい経験を打ち明けられる相手ができたことで、情緒面もずいぶん安定してきたように感じる。



オーダーを取りに来たウェイトレスに、メニュー表へは目を通さないままジンジャーエールを注文した。すると、なずなさんが笑いながら言った。
「あれぇ? 今日はケーキ頼まないの?」
彼女の前には、食べかけのレアチーズケーキの皿がある。「スイーツの美味しい店だから」とこの店に誘ったのは私だったし、これまでは彼女と一緒にケーキセットを頼んでいたから、そう言われるのも当然だった。
「えぇ、ちょっと食欲がなくて…」

言葉を濁しつつ曖昧に笑むと、なずなさんがキッと眉を吊り上げた。
そして、母親のような口調で私を諭す。
「もしかして夏バテ? だめだよ。先生は細いんだからちゃんと食べないとさ」
かく言うなずなさんも出会った頃はひどく痩せていた。偏った食生活のために栄養失調にまで陥っていた彼女だったが、自宅で食卓を囲めるようになった今では、少し体重を増やし、血色のいい顔になっている。
「ご心配ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」
「そ? なら、いいんだ」
彼女はそう言って、アイスコーヒーのグラスにさしたストローを自分の口元に引き寄せた。



私の方の注文の品が届くのを待ってから、なずなさんは話を切り出した。
「今日は先生に報告したいことが2つあるの」

一つ目は、なずなさんが最初に師事した、元ピアノ講師の久芳加寿子先生の話題だった。なずなさんは夏休みを利用し、紗南さんと二人で岩手県一関市に住む久芳先生を訪ねた。約3年ぶりとなる再会を、先生は涙ながらに喜んでくれたという。なずなさんと紗南さんをかわるがわる抱きしめ、その成長ぶりに驚き、岩手の郷土料理でおもてなしをしてくれたそうだ。

「病気のせいか、加寿子先生はすごく痩せてた。でも元気そうだったよ」
「そうですか」
「もう一度会えてよかった…。先生が住所を調べてくれたおかげだね。ありがとう」
「いえ、実際に調べたのは私じゃなくて佐久間さんです。彼女は情報収集が得意なんですよ」
「佐久間さんって、パラリーガルの? じゃ、お礼伝えておいてね」
「はい」


二つ目は、ピアノの話題だった。なずなさんは、先月から新しい講師の下でピアノを習い始めた。その講師には、過去、右手にジストニア様の症状が出たことを明かしていて、今は練習時間や内容に配慮しながら両手指をリハビリさせているという。

「もうね、ミスタッチばっかり。やっぱブランクの影響は大きいよ」
「右手の不調は感じていませんか?」
「それは大丈夫。震えたり、動きが止まったりすることはないよ。でも、手に負担をかけないように、1日の練習はきっかり1時間って決めてるの。それじゃ物足りないけど受験勉強もあるし、今は我慢してる」
「メリハリは大事です。志望校は決まりそうですか?」
「それは今からの頑張り次第かなぁ…。テストの判定は散々だし」

なずなさんは大きなため息を吐き、テーブルの脇に置かれた教材に恨めし気な視線を送る。苦手教科は国語なのだという。彼女が理系志向であることはなんとなく想像がついていた。


「今思えば、魔法だったのかな…」
「…え?」
ポツリと洩らされた呟きを、拾いきれずに聞き直す。なずなさんは自分の右手に視線を注ぎながら、もう一度、同じ言葉を繰り返した。
「Ruiと先生の前で『愛の挨拶』を弾いた時、ものすごく滑らかに指が動いたの。あの時の達成感は、ほんと、忘れられない。でも今は同じようには弾けないんだ。…だから、あれはベヒシュタインの魔法だったのかなって」

壇上で煌々とスポットライトに照らされた彼女の姿を、今も鮮明に覚えている。
ピアノを前に、心はただ自由であれ。
そのように類に導かれ、彼女は自分の力で過去のくびきを断つことができた。

迷信などは信じないと言い切ったなずなさんの、心境の変化にそっと微笑む。
だからこそ、こうも言える気がした。


「あの日は、お母様のご命日でもありましたね」
「…うん」
「だから案外、傍にいたのかもしれませんよ。なずなさんを心配して」

なずなさんの瞳が揺らめいた。
右手をグッと握りしめ、それを左手で包んで胸に引き寄せる。
大切なものをそっと抱くように。


「……そうかも。…いてくれたのかも」




なずなさんは少し間をおき、両手を開いて卓上に乗せ、私の方を見つめ直した。
「じゃ、あたしの報告はここまで。次は先生の報告が聞きたいな」







いつも拍手をありがとうございます。
今作の設定を2002年にしていることもあり、具体的な日時を書いてこなかったのですが、第1話は2002年5月11日土曜日、第41話は6月11日火曜日でした。つくしとなずなは、毎月下旬に面会をしていたことになります。

次話、いよいよ最終話です(#^^#)
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2 Comments

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2020/08/12 (Wed) 08:36 | REPLY |   
nainai

nainai  

み****様

こんばんは。
コメントありがとうございます(#^^#)

決断したら即実行w 思い立ったが吉日の二人ですww
多忙ながらも、類がうまくリードしてくれたのでしょう。

なずなはすっかりつくしに懐いています。芯の強い子ではありますが脆い一面も抱えたままなので、フォローアップは欠かせません。真尋のその後についても後述しますね。

中編としながら今回も長い連載になってしまいました。個人的にはいろいろ反省点が…。いよいよ最終話です。最後まで楽しんでいただければ嬉しいです(*^^*)

2020/08/12 (Wed) 23:46 | REPLY |   

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