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Marbling Orange ~28~

Category『Marbling Orange』
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~Rui~


国際線ターミナルビルに到着した時、母は出発ロビーの一角で俺達を待っていた。その傍らには空港保安員の男性が二人立っている。引き留めるための手段を問わないという言葉通り、田村は多少強引な策を講じて彼女の行く手を阻んだようだ。保安員には俺が話をし、その役割を全うしたことを告げると、彼らは速やかに去った。


キャメル色のコートに身を包んだ母は、憮然とした表情で俺に言った。
「何も非が無いのに、保安員に連行された私の気持ちが分かるかしら?」
それこそ生まれて初めての経験だろう。
その時の光景を想像すると、不謹慎ながら失笑が洩れそうになった。
「非合法な手段で引き留めたことは謝ります。でも、あなたには説明義務があるんじゃないですか? それを果たすことなく国外逃亡を図るのはいかがなものかと思います」
「…搭乗まで時間がありません。話なら早めに済ませたいのですが」

母は腕時計に目を落とす。時刻は午前9時を回るところだ。
その左薬指に結婚指輪ははまっていない。

「何時に出発ですか?」
「9時50分。メルボルン行きです」
「メルボルン…」
予想外の目的地だった。思わず声に出して復唱する。
メルボルンは、オーストラリア南東部に位置するビクトリア州の州都だ。これまで多くの時間を日本か欧州で過ごしてきた母に、縁のある土地とは思えなかった。


「河野は、あなたが花沢を出奔するのではないかと言っていました。本邸の私物を整理した様子だ。今朝は結婚指輪をはめていなかった、と。行き先も父のいるパリではない。…これらの意味するところは?」
問いかけに返るのは、感情を示さないクールな微笑。
「…さすがは河野さんね。長年勤めていらっしゃるだけのことはある。…指輪は、今朝、寝室のサイドテーブルの中に置いてきました。誰にでもすぐ分かる場所です」
「父とはどうするつもりですか?」
「私の意向はすべて代理人に伝えてあります。明日にも連絡がいくでしょう。崇さんとは別れるつもりです」

まったく言い淀むことなく、母はその意志を示した。
身を強張らせたのは、傍らにいるつくしだけだ。
俺は驚かなかった。むしろ、納得してその言葉を受け止めた。


「いつから決めていたんですか?」
「漠然とした気持ちは数年前からありました。明確に離婚の意志を固めたのはこの秋のことです。実家の母にはすでに了承を得ています」
河野によれば、彼女が人を使って本邸の私物を整理したのは、10月中旬のことだ。私物は横浜の実家に送られているから、この件を祖母が了承済みであろうことは分かっていた。厳格だった祖父が存命であれば離婚に反対しただろうが、彼は2年前に亡くなっている。

「何をきっかけに?」
母はつくしに視線を移し、この上なく優しく笑んで答えた。
「牧野さんが、類の気持ちに応えてくれたからです」
「……っ!!」
つくしは驚き、両手で口元を覆う。
その仕草に、母はすかさずフォローを入れた。
「牧野さんのせいだと申しているのではありません。私は、あなたが類を選んでくれたことに深く感謝しています」


「それなら…どうして…」
つくしの声は震えている。
「どうして、あなたに類との別れを迫ったのか、ですね。その質問に答えるには、私はまず謝罪から始めなければいけないでしょう。……私は、手前勝手な都合であなたの覚悟を試しました。とても威圧的な態度で、意地悪な質問ばかりして。
……金沢に滞在している間、あなたがひどく気落ちした様子だったと報告を受けています。つらく悲しい気持ちにさせてしまったことを、心から申し訳なく思っております」

「それは、誰からの報告ですか?」
俺の横やりに、母は応じる。
「牧野さんはお気づきではなかったと思いますが、少し前から監視の者をつけていました。それから類。あなたにも…」
「そう…だったんですね…」
つくしは呆然と呟く。
道理でタイミングよく邪魔が入ったわけだ、と腑に落ちる。
「…田村とも通じていたのですか?」
「いいえ。田村さんはまったくご存じないことです」
その言葉に俺は一抹の安堵を得る。ここで田村の忠心を疑いたくはなかった。


「牧野さんは、私の与えた試練を乗り越えてくれました。どんなことがあっても類の手を離さない、と約束してくださいました。そうした覚悟がなければ、…強い気持ちを保てなければ、いつか周囲からの重圧に耐えられなくなるからです。
あなたの心の声を聞くことができた時、私は自分の役割を終えたことを理解しました。なぜなら、これからのあなた達の意思決定に、私の言動はまったく影響し得ないからです」
母親の役割を終えたから、妻の役割も終えるというのか。
「…どうして、つくしが俺を選ぶことが、父との離婚に繋がるんですか?」
相手は笑う。翳りのある表情を浮かべて。


「政略結婚の空虚を示すためかしら…。示したところで、あの人の心に響くとは思いませんが…。これまで何不自由ない暮らしをさせてもらって言えることではありませんけれど、長年、私の心は満たされずにいました。
夫婦での意思決定を行う際に、あの人が私に意見を求めることはありません。類の教育方針も、会社のことも、家庭のことも、すべて花沢家の意向を優先に決められてきました。
夫に付き従うのが貞淑な妻の在り方と教えこまれていた私は、さしてそれを疑問視してこなかったのですが、それでも私の中にはそうした流れに抗いたい気持ちが多少なりあったようです。個としての私を認め、気持ちを尊重してほしい、と…」


母は自己主張をしなかったのではない。できなかったのだ。伏し目がちの瞳は従順の姿勢だったのかもしれないが、母個人の考えもやはりそこには存在していた。
不満は長い時間をかけて堆積し、ついに崩れ落ちる時を迎えた。ここまでくると、夫婦関係の修復は容易ではないだろう。


「…つまり、幸せではなかったんですよね。あなたは」
導き出した結論を苦々しい気持ちで呟くと、母はゆるく首を振った。
「いいえ、そうとは言い切れません。とても貴重な経験をさせてもらいましたし、楽しい思い出もありました。…何よりも嬉しかったのは、あなたの母親になれたことです。
…残念ながら、あなたにとって、私はいい母親ではなかったでしょう。家庭内での私の立場は弱く、あなたを守ってやることはできず、心の拠り所にもなれませんでした。そのことは大変申し訳なく思っています。それでも、こうして立派に成長したあなたを見て、私の26年間は無意味ではなかったのだと実に感慨深く思っているのです。
花沢家の一員として、花沢崇の妻として、求められるだけの働きをしてきたつもりです。私は、『花沢亜依子』という虚像を精一杯演じてきました。…でも、それにも疲れてしまいまして」


ようやく明かされた母の苦悩。
哀しみを見せない彼女の微笑が胸に痛い。


「…俺には、あなたのことがよく分からなかった」
「そうでしょうね。隠していましたから」
「俺は人の気持ちを酌むのが苦手です。それに、自分の気持ちを表すことも苦手です。…きっと、俺の方も、あなたにとっていい息子ではなかったのでしょう」
俺とよく似た鳶色の瞳が瞬く。
「でも、これは俺の特性であって、俺自身が克服すべき不得手です。だから、あなたが過去のことをあれこれと悔やむ必要はないと思います。俺は、あなたのことも、父のことも憎んではいません」
「……ありがとう。……そう言ってもらえて、気持ちが楽になりました」


母は、つくしに向き直る。
そして頭を下げる。深々と。


「牧野さん、どうか、類のことをよろしくお願いいたします。あなたのひたむきな愛情で、これからも類を支えてやってください。花沢が何と言おうと、結婚は自由意思で行うべきだと私は強く思っています。…ですが、私にはその意見を通す力がないのです」

つくしは驚きのあまり、言葉を失った。
だが、一瞬のちには硬直を解き、俺達が驚くほどの声を張った。
「私に頭を下げることはありません! むしろ、私がそうするべきです!」
言って、彼女も深く腰を折る。
周囲の注目を一身に集めながら。

「類さんのパートナーとして認めていただけたこと、本当に嬉しく思います! こんな私でよければ、いつまででも類さんの傍にいて、彼を支え続けます! 頑張ります!」


声の大きさと勢いと潔さに、つい笑いがこみ上げた。
それを上回る喜びが、体中を満たしていく。

…これが、牧野つくしなんだよな。
まっすぐで、全力で、一生懸命で。
誰よりも、何よりも、大切な君。


「「…ふっ」」
声を上げたのは俺だけではなかった。
見れば母も口元を押さえ、笑いをこらえている。

パッと上体を起こしたつくしは、唖然としたように俺と母を見渡した。
困り果てたタヌキ顔が、首まで赤くなっていくのが可愛くて仕方ない。
俺と母は、もう一度目線を交わして笑った。
そんな俺達を見てホッとしたのか、やがてつくしも笑顔になった。



メルボルン行きの搭乗案内のアナウンスが終わりに近づいている。
母は保安ゲートの方を振り返った。
止めても無駄なことは分かっている。だから引き留めることはしない。

「…そろそろ行きます。乗り遅れてしまいますから」
「メルボルンには知り合いがいるんですか?」
「えぇ。20年来の友人が住んでいます。しばらくその人の元でお世話になります。彼女の仕事を手伝うことになっているのです」
「今後、拠点を移す可能性もありますか?」
「えぇ。いずれは。定期的に連絡はしますから心配しないでください」

その返答に俺は頷く。
母は慎重な性格だ。
何の計画もなしに行動はしないだろう。


「牧野さん」
「はい」
名を呼ばれたつくしが背筋を伸ばす。
「昨日、夕食をご一緒した時、あなたが美味しいと言ってくださった料理がありましたね」
「はい。…かぶら蒸しです」
その言葉の響きには覚えがあった。母が得意だった料理の名だ。
「あれは私が作ったものです。あなたへのお詫びの気持ちを込めて。……褒めていただけて、とても嬉しかったです」


母は踵を返した。ゲートに向かって歩いていく姿は颯爽として、寸分の迷いも気取らせない。彼女は、もう、新しい未来に向けて歩き始めている。

「あの…っ。お体には気を付けてください!」
その背を追いかけるように、つくしが言葉をかける。
母はこちらを振り向かず右手だけを上げた。
それが、彼女との別れだった。



俺には、これでいいと思えた。
母には、母の人生を生きてほしい。
自分自身を抑圧することなく、枠にとらわれず自由に。

それを父がどう受け止めるのかは分からない。母の選択をあっさり許すのか、少しは渋るのか。でも夫婦問題は俺が口出しすべきことではないし、できない。どういう結果になるのか、一方だけに不利益がないよう静観するのみだ。






いつも拍手をありがとうございます。
この回では、花沢亜依子の複雑な二面性を明らかにしました。彼女の抱えてきた悲哀が上手く伝わっているといいのですが…。
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2 Comments

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2021/02/24 (Wed) 19:34 | REPLY |   
nainai

nainai  

ゆ****様

こんばんは。コメントありがとうございます(*^-^*)
第28話は真相編でした~。

『花沢亜依子』という人物をどのように描いていくか。それが今作における最大の課題でした。かつての楓のような非情な敵ではないけれど、かと言って全面的な味方でもない、という複雑な立場を取らせてみました。
亜依子は、自身の孤独や苦悩を理解されたいという欲求より、類やつくしのために今の自分にできることをしたいという利他主義の女性でした。つくしにも、類にも、彼女の想いが通じてほしいと思いながら最後のやり取りを書きました。ゆ****様の仰るように、ありがたい存在であったわけです。

連載も残り2話となりました。しみじみ…。今作はどこでエンドを結ぶつもりなのか、楽しみに読み進めてくださいませ(#^^#)

2021/02/25 (Thu) 21:17 | REPLY |   

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