FC2ブログ

Marbling Orange ~29~

Category『Marbling Orange』
 0
~Tsukushi~


大きなジェット機が低速で滑走路へと移動し、スタート位置にたどり着く。
唸りを上げるエンジン。轟音と共に加速していく機体。
そして、離陸テイク・オフ―。

先程まで視界を遮っていた雪はピタリと止み、ほぼ定刻通りの出発となった。白い機体は両翼を大きく広げ、鉛色の空に向けてぐんぐんと上昇する。やがて機体は上空でゆっくり旋回し、南半球のメルボルンへと針路をとった――。



あたしと類は、展望エアデッキで、亜依子さんを乗せた機体が飛び立つ瞬間を見守っていた。デッキ上には北風が冷たく吹きすさぶ。そのためか、見送りに出る人の姿はごくわずかだ。

「行っちゃったね…」
あたしのつぶやきを風が攫っていく。
「亜依子さんが思い描く未来に、進んでいけたらいいね…」

隣に並んで空を見上げていた類が、あたしの方へと向き直ったのが分かった。あたしも類を見やる。美しい鳶色の瞳が、悲哀を含んで揺れていた。


「相変わらずだね。…お人好しなんだから」
「そう?」
「つくしは、もっと怒っていいんだよ。その権利がある」
「うぅん。本当に、もういいの」
あたしは笑う。
「亜依子さんの作ってくれたかぶら蒸し、美味しかったよ。とても優しい味がした。手間暇のかかる料理を、心を込めて作ってくれたんだと思うの。……だから、もういいんだよ」
でも、彼の瞳はまだ悲しそうだ。


類はおもむろに手を伸ばし、あたしの額に触れてくる。
「ここ、傷痕がある」
「…傷? …あぁ、よく見てるね」
「つくしのことなら、大抵知ってる」

自分でも忘れていたような古傷だ。英徳の集団リンチで石を投げられ、負傷した時の。普段は前髪に隠れて見えないけれど、近くで見れば薄らと白い痕がある。類の指がそれを痛ましそうに撫で、頬のラインをたどり、下へと滑り落ちていく。

「体に傷跡が残るように、目に見えなくても心に傷が残ることを俺は知ってる」
「…うん」
「ごめん。…また傷つけた。つくしのこと」
「そんなことない。あたし、こんなに元気だよ?」
類は首を振る。頑なな様子で。
「つくしは笑ってくれるけど、俺は母の言動が許せない。真意を確かめるにしても、もっと違うアプローチがあったはずだから。…でも、母の苦悩を理解してやりたい気持ちもあって、そういう自分自身にも腹が立ってる」
「確かに別のアプローチはあったかもしれないね。でも、亜依子さんは、それだけ類のことが大切だったんだよ…」


亜依子さんがあたしに呈した疑問は、今後、他の誰かが呈するかもしれない疑問だったと思う。あたしはひどく追いつめられながらも、その答えを必死に見出そうとした。

類のパートナーはあたしでいいのか。
もっと他に相応しい女性がいるんじゃないか。
まだ、道明寺に気持ちを残しているんじゃないか。
心から類を愛せているのか。

そうした中途半端な迷いは全部削ぎ捨てて、ただ、類の傍にいることだけを望むに至った。そのためにならどんなことでもできる、と思った。誰に何を思われてもかまわない、と思った。
要は、それが『覚悟』だったのだ。


「あたしは、今回の件で、自分自身の迷いを断ち切ることができたよ。体の真ん中にしっかりと芯が通った気がした」
風にさらされて冷たくなった類の手を取る。
「だって、あたしの人生、類なしじゃ考えられない。もう二度と迷わないよ。誰の言葉にも惑わされない。あたしには類が、類にはあたしがベストなんだって、それだけを信じていく」
両手で包んだ類の手が、あたしの手を握り返す。
類の瞳に、強い光が戻ってくる。


「類。ずっと一緒に歩いていこう。いつもは足並みを揃えて、疲れたら休んで、時には元気な方がリードをして。…楽しいばかりの道じゃないことは分かってる。でも、この手は絶対に離さないから」


類が笑う。
これ以上はないくらい、幸せそうに。
その笑顔が、本当に好きなの。

ねぇ、類。
あたしも、今、同じ顔してるでしょう?
類が笑顔なら、あたしも笑顔になれる。

あたし達、そんなふうに、お互いの気持ちを大事に育ててきたんだよ。
類とあたしにしか、できないことなんだよ。



「…プロポーズみたい」
類の言葉に、あたしはハッとする。思いの丈を伝えたくて、ああいうふうに言ってしまったけれど、確かにそれはプロポーズのようで…。
「そうかも。……うん、そうだよ」
「…言葉にならないくらい、嬉しい」
繋いだ手を持ち上げ、類はあたしの手の甲に口づけをする。
そして、こう言った。


「俺さ、たぶん、春にはパリに赴任する」
「うん…」
「仕事はもっと忙しくなる。プライベートの時間はもっと少なくなる」
「うん…」
「でも、どんなに忙しくても、つくしの存在をいつも身近に感じていたい。だから…」
そこに、一拍の間が置かれて。


「春まで一緒に暮らそうか」


類がパリに旅立つまで約3ヶ月。
でも、あたしは彼についていくことができない。
類もそれを分かっている。
あたし達にはまだ、対峙すべき問題が残っているから。

限られた時間の中で、今のあたし達にできることは何?
どうしたら、この胸の寂しさを埋めることができる?


「…よろしく、お願いします」


類は、あたしを抱きしめた。
あたしも、同じ強さで彼を抱きしめ返す。
吹き付ける風の冷たさも忘れてしまうほど、強く、強く―。





それからの類の動きは早かった。自分で引っ越し準備をするというあたしの主張は、菩薩のような笑顔で瞬殺された。
翌日、仕事中のあたしをよそに、類は業者に依頼して引っ越し作業を完了させてしまった。あたし達は、同棲を決めた翌日から一緒に暮らすことになった。

「…じゃあ、使うね」
「どうぞ」

夕刻、オフィスビルの前まで迎えに来た類と一緒に帰宅した。あたしは、類が作ってくれた専用のセキュリティカードを財布から取り出し、玄関扉のロックを解除した。
カードキーを使うのはこれが初めてだった。それが妙に誇らしくて、気恥ずかしい。ピッという電子音がして解錠された扉のノブを引き、あたしは類を見上げた。

「…ただいま」
「おかえり」
「これからお世話になります」
「こちらこそよろしく」

豪奢なマンションの一室に、あたしの私物がぎゅっと押し込まれている。家電製品の多くは、もったいないけれど処分するに至った。ワンルームで暮らしていたあたしの荷物はさほど多くないけれど、まだ取捨選択が必要で、整頓を終えるには時間がかかるだろう。
類はあたしと夕食の時間を楽しんだ後、もう少し仕事をすると言って職場に戻っていった。


同棲するにあたり、あたし達は、ある大切な取り決めを交わした。
それは、『生活スタイルを相手に合わせない』ということだ。

類の仕事はとても変則的だ。急な予定変更も多い。マンションに戻れない日もある。
あたしの仕事もクライアントに左右される。納期によっては残業も増える。休日出勤もある。

帰宅、食事、そして就寝時刻。
そういった一切を相手のリズムに合わせることはやめ、自分が暮らしやすく暮らすことに重点を置いた。その中で共有できる時間があれば、それを大切にしようと決めた。無理をしないことこそ相手への最大限の気遣いだと類は主張し、あたしもそれに賛同した。




類と同棲を始めたことを、最初に報告した相手はママだった。
ママは最後まであたしの話を聞いた後、電話の向こうで大きなため息をひとつ吐いた。

「あんたは、それでいいのね?」
「うん」
「後悔しない? あちらのお父さんに認めてもらえるかどうかも分からないのに」
「もう迷わない。ママに反対されても決心は変わらないよ」
「なら、どうしようもないわね。でも、あんたは類さんを選ぶだろうと思ってた。……苦労性なんだから」

ママの声は少しだけ小さくなった後、急に明るいトーンへと変わった。
「年末年始はどうするの?」
「あたしは、元日にそっちに戻ろうと思ってる」
「それなら類さんも連れてきなさい。歓迎するからね。ささやかな食卓だけど、一緒に新年を祝いましょうよ」
「……うん!」


ママの気持ちも分かってるよ。
心配してくれてるんだって。
あたしを大事に思ってくれてるんだって。

だけど、あたしはもう心を決めたから、今度は背中を押してほしい。
“頑張れ”の一言が大きな活力になるんだよ。



慌ただしく迎えたクリスマス・イヴ。
盛大に祝って、珍しく羽目を外した、あたしの24歳のバースデー。
牧野家の面々とたくさん笑い合った元日。

楽しい時間を過ごせば過ごすほど、お互いの存在が日常に溶け込んでいけばいくほど、たぶん春の別れはつらいものになる。それが分かっていても、あたし達は深く愛し合った。類が惜しみなく注いでくれる愛情を、あたしも負けじと注ぎ返して、多忙な中でも笑顔の絶えない毎日を送った。



一月は行く。二月は逃げる。三月は去る。
その言葉通り、年が明けてからの月日は飛ぶように過ぎた。

正式な内示が出たのは3月初旬のこと。
類は4月からパリ支社に配属となる。任期は未定。


あたし達には別離が迫っていた。
もうすぐ新しい年度が始まる。
類の出立まで、あとわずか。






いつも拍手をありがとうございます。
次話、いよいよ最終回です。
関連記事
スポンサーサイト



0 Comments

Post a comment