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Category第2章 解れゆくもの
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暦は8月に変わった。事故の夜からはもう1ヶ月以上が過ぎた。
…類は、まだ目覚めない。


8月2日、木曜日の午後のことだった。
「それは、何を作っているの?」
あたしが手作業で課題の制作を進めるのを、ベッドサイドの真悠子さんが興味深そうに見つめている。
「サマーバッグです。布1枚で簡単に作れるんですよ」
「本当に器用ね。…それが完成したら、私にも縫ってもらえないかしら」
意外なことを聞いた気がして、あたしはつと顔を上げる。
「そんな…。素敵なものじゃないですよ?」
「布はこちらで用意するわ。だって、すごく機能的に見えるんだもの」

デザイン性よりも機能性。
つい、あたしが重視しがちなポイントだ。時には、デザインに比重を置かなければいけないときもある。真悠子さんの意見で、あたしはバッグに付けるかどうか迷っていたチャームを、やっぱり付けることにした。
「じゃ、寸法を書きますので、その大きさの布地を準備してもらえますか? 2日もあればできると思いますから」
「分かったわ。楽しみにしてるわね」
そう言って、二人で静かに笑い合っていた時だった。
 

「……………」
あたしの耳は、真悠子さんでもなく、病室の外の誰かの声でもない、小さく掠れた声を捉えた。目線は真っ直ぐに類へと向かう。
「…どうしたの?」
真悠子さんの声が怪訝そうに曇り、あたしの目線を追うようにして類を振り返る。
「…あっ」
その声に、あたしはベッドサイドに駆け寄った。類の口元がかすかに動いている。そして、瞼がうっすらと開いているのを確かめた。
「類っ!」
あたしの声に対する反応がある。間違いなく、この目で見た。
真悠子さんは類の左手を両手で包み込み、必死に彼に呼びかける。
「類っ! 目を開けて! 戻ってきてちょうだい!」

ぎゅっと寄った眉根。
はぁ、と吐かれたため息。
そして…。

「そんなに…怒鳴らなくても……聞こえてる…」
ひどく掠れてはいたが、彼の声がした。心臓がぎゅうっと掴まれたように痛んだ。
あたしは咄嗟にナースコールを押していた。すぐに看護師の応答がある。
「どうなさいましたか?」
「あのっ、せ、先生を…。類さんの、意識が…戻って…」
声が上ずる。舌が縺れて、言いたいことが言えない。
えっ、と驚いた反応があり、すぐ呼んで参ります、と口早に返答されてコールは切られた。

「…類…っ」
真悠子さんは泣きながら、類の上半身に覆いかぶさるようにして彼を抱きしめた。
「本当に良かった…! あなた、1ヶ月以上も意識がなかったのよ…っ」
「…え……何。……母さん?」
類の反応は鈍かった。
声は掠れて低く、ひどく気怠げで…。
あたしはそれを聴いたとき、ヒヤリと背に冷たいものが走った気がした。
…彼のそういう声を、遠い過去に聴いたことがある。

担当の脳外科医は、事故のショックで事故以前の記憶がなくなっている可能性をすでに挙げていた。
あたしは、道明寺が刺されたことによる出血性のショックから、あたしの記憶だけを失くしてしまうという特異な過去を経験済みだったために、類にも同じようにそうした記憶障害がないかを深く懸念していた。


ほどなく真悠子さんが上体を起こし、居住まいを正したのを見て、あたしは思わず訊ねていた。
「事故のこと、覚えてる?」
ベッドサイドに控えていたあたしに、ようやく気づいた様子の類は、その静かな問いに小さく首を振った。
「…いや、覚えてない」
あたしと目が合っても類の表情は何ら変わらず、美しく澄んだ瞳に不思議そうな光を浮かべて、あたしをじっと見つめ続けた。
真悠子さんも、この冷静なやりとりに危ういものを感じたのだろう。息をつめて、あたし達を見つめている。

「……あたしが、分かる?」

口がカラカラに乾いていた。
類の返答を待つこの数秒が、恐ろしく長く感じた。

「分かるよ」

類はニコリともせずに、そう返した。あたしは、その声の冷たさに、決してそれがいい答えではなかったことを理解していた。
次の言葉を聞くよりも、前に。

「…俺の1学年下の、、、、、、、牧野、、だよね?」

―その、呼び名…。




ノック音がして脳外科医が駆け込んできたために、あたしと類のやりとりはそこで中断された。
診察の間は病室を出ていてほしいと指示され、真悠子さんはショックで立ち尽くしたあたしの肩を優しく抱くと、そのまま病室の外へと連れ出してくれた。そうでなければ、あたしはあの場から自分で動くことはできなかっただろう。
彼の返答からは、少なくともあたしの存在を認識していることは窺えても、婚約者として認識しているとは到底思えなかった。
あの瞳は、あの口調は、高校で出会った頃の彼そのもので。
…あたしを、望んではくれなかった頃の彼だ…。


類の診察を終えて出てきた医師は、そのまま看護師一人を病室に残し、あたしと真悠子さんを診察室へと招いた。
そこで聞いた診断の結果は、あたしの予想に違わないものだった。
「…花沢さんは、記憶の一部を失っておられるようです。逆行性の記憶障害だと思われます」
医師の口調は重い。
「今日の日付と自分の年齢を尋ねたとき、彼は6年前の6月15日だと答え、自分を17歳…つまり高校3年生だと認識しているようでした。英徳学園高校でいらっしゃいましたね?」
真悠子さんが小さな声で、はい、と答えたのを深い絶望とともに聞く。

―だから、あたしの名前は、、、、、、、憶えていたんだ。

6年前の6月なら、道明寺の貼った赤札を通じて、あたしと類が互いを認識したすぐ後の頃だ。
『…俺の1学年下の、牧野だよね?』
彼の言葉がリフレインする。
その瞳が静かに問うていた。
なぜ、後輩の一人にすぎないあたしが此処にいるのか、と。


「それと、左腕に麻痺を認めます。触れても感覚が鈍いご様子でした。しかし、これはリハビリ次第で回復する見込みのある症状だとは思います」
彼の利き腕は左手だ。右手が使えたとしても、左手が回復するまでは、少なからず生活面にも支障は出るだろう。
「…息子の記憶は、戻るでしょうか?」
真悠子さんの質問に、医師は難しい顔をした。
「記憶障害の回復には大きな個人差があります。すぐに回復される方もおられますし、一生回復されないままの方もおられます。6年間分の記憶となると、彼の認識と今とが非常に乖離かいりしているため、ひとまずは現実と、付随する多くの困難とに向き合う必要があるでしょう」

記憶の回復に関しては、かつて道明寺を診察した医師も同じことを言っていたのを思い出す。
…最終的に、道明寺はあたしのことを思い出した。
だけど、そこに行きつくまでには多くの苦難があり、ボロボロになったあたしを支えてくれたのが類だった。


「先生からは、類さんに、もうその事実をお伝えされましたか?」
あたしは言葉を区切りながら医師に問う。
「まだです。ご家族のご意見も伺おうと思いましたから…」
6年間もの膨大な時間が失われていることを、どんな風に伝えれば、彼の混乱を招かず、その現実を素直に受け入れてもらえるだろう。
「…あの」
あたしは申し出た。…この事を申し出ることにも気力が必要だった。
「これからの彼への説明の際、わたしが彼の婚約者であることは、伏せていてもらえませんか?」
「…つくしさん!?」

真悠子さんの目が大きく見開かれ、その理由を問い質そうとする。あたしは真悠子さんに向き直り、考えの基となった過去の事実を、丁寧に説明する。
「…真悠子さんもご存知のように、6年前の彼は、ある女性に想いを寄せていました」
彼女はもちろん、それが誰を指しているのか、すぐ分かった様子だった。
「その時期は、まだその恋に終止符を打っていない頃です。今の彼の気持ちは……きっと、わたしにはありません。そのわたしが婚約者だと告げても、かえって彼の混乱や…反発を招くような気がして、怖いんです…」

彼はあたしの一部で、あたしは彼の一部であるはずなのに…。
それでも事実を告げて全力で拒まれたなら、もうどうしたらいいのか分からない。
類の冷たい瞳に、声に、自分の存在を否定されてしまえば、あたしはきっと息ができなくなるだろう。
かつての道明寺との相克そうこくが、あたしをひどく臆病にさせる。


「…いかがいたしましょうか」
医師は真悠子さんとあたしの顔を交互に見て、方針を決めかねている様子だった。あたしは真悠子さんの判断を待つ。
彼女が選んだ答えに、あたしは身を委ねる覚悟だった。
―本当に、それでいいの?
彼女は無言のままに真意を問い、あたしはそれに大きく頷いた。
「…先生、彼女の希望通りにお願いできますか?」




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もう伏線からもお分かりだったと思いますが、記憶喪失ものです。
個人的に、一度は書いてみたいテーマでした。
つらい展開が続きますが、よろしくお付き合いのほどを…。
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2 Comments

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2018/07/10 (Tue) 23:26 | REPLY |   
nainai

nainai  

わ様

こんばんは。
いつもコメントいただき、ありがとうございます(*´ω`*)

わ様のご想像通り、嫌~な展開を繰り広げております…。登場人物たちをはじめ、読者様にも申し訳ないなぁと思いながらも、話を進めていきます。
プロローグの半分くらいはもう理解できるようになったと思いますが、まだまだピースは足りません。
どういうふうに二人の関係が『ほつれて』いってしまうのか…。しばらくはため息が続くと思いますが、続きもぜひご覧くださいね。

アンハッピーにはしないつもりです!
もう、これは先に宣言しておかないといけない気がしてきました…(^^;)

2018/07/11 (Wed) 00:14 | REPLY |   

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