FC2ブログ

2-9

Category第2章 解れゆくもの
 0
あたし達三人が病室に戻ったところで、真悠子さんは医師を呼んだ。
類はベッドに上体を起こしていて、顔色はよくないものの、意識ははっきりしている様子だった。
やがて病室に姿を見せた医師の口から、初めて見当識けんとうしきの誤りが指摘されると、類は怪訝そうな顔で医師を見つめ返し、こう言った。
「…それ、どういう…こと?」
困惑の色を浮かべた双眸そうぼうを、その痩せた頬を、あたしは離れた位置から息をつめて見つめていた。
「信じがたいことのように思われるかもしれませんが、花沢さんの認識している日付から、今は6年が経過しています。あなたは現在23歳。年度末には24歳になります」
「……………」

類は絶句し、まず傍らに控える真悠子さんを見つめた。真悠子さんがゆっくりと頷くと、その背後に立ち並ぶ西門さんと美作さんにも順に目線を移した。
彼らも同様に頷くのを確認してから、類は最後にあたしを見つめた。
彼の瞳に浮かぶ困惑の色が深まっていく。
あたしが頷くより前に、絡まった視線は類の方から外され、彼は頭を垂れて自分の手元をじっと見つめた。

これを、と医師が類に差し出したのは、今日の日付が印字された新聞だった。類は麻痺の残る左手ではなく、右手でそれを受け取り、上端に印字された年号を見るとすぐに、その新聞を医師へと突き返した。
固唾を呑んで彼の様子を窺うあたし達の前で、類は無表情のまま大きくため息を一つ吐くと、医師に説明を頼んだ。
「…俺は事故に遭ったのだと聞きました。最初から説明してもらえませんか」
医師は頷き、時を遡って、6月26日の夜に起きた事故から現在に至るまでの経過を話し始めた。類は動きの鈍い左手を右手でゆっくり擦りながら、質問を挟むことなく医師の話を最後まで聞き終えた。


「明日、精密検査を行います。記憶障害や左腕の麻痺の原因を探り、肋骨の骨折の経過を確認して、今後の治療方針を考えていきます。…何か、ご質問は?」
医師が問うても、類は顔を上げずにかすかに首を振っただけだった。
無言のまま微動だにしなくなったその姿に、彼の戸惑いが痛いほど伝わってくる。
誰だって同じ立場ならそう感じただろう。
彼にしてみたら、目覚めたら6年後の世界にスキップしたようなものなのだ。
医師はそのまま話を打ち切ると、一礼して退室した。



病室に残されたあたし達の中で、最初に緊張を解いたのは西門さんだった。
「…類、目が覚めてよかったな。このまま眠ったままなんじゃないかって、みんなずっと心配してたんだぜ?」
西門さんの明るい声に励まされて、真悠子さんも言葉を継ぐ。
「元の状態に戻るまでは時間がかかるかもしれないけれど、焦らずに治療していきましょう」
対する類の反応は鈍かった。
「………あのさ」
類が発した低い声音に、一瞬でその場にピリッと緊張が走り、全員が彼を注視する。


「…実感ないんだけど、本当に6年経ってる? …俺、もう社会人?」
「えぇ、花沢物産本社で専務として働いていたのよ。社会人としては2年目だったわ」
ふぅん、と生返事をして、彼は旧友を見る。
「司は?」
「…あいつはもう何年も前からNYにいるんだ。会社を継いで、いまは副社長だ」
美作さんがそう答えるのを、あたしは少しだけ苦い気持ちで聞いた。

「静はどうしてる?」
彼の口から彼女の名を聞くと、心が痙攣を起こしたように痛んだ。
「フランスで暮らしてる。…あいつ、弁護士になったんだ」
「へぇ…。藤堂の家がよく許したね」
「…いろいろあったんだよ」
一瞬、類はまだ何か聞きたそうにしたけれど、結局それ以上は問わなかった。


静さんは、類が事故に遭う直前にフランスで双子を出産された。
彼の事故の報を受け、彼女も帰国しようとしてくれたのだけど、産後の肥立ちがあまりよくはなく、双子の育児にも追われ、それは実現しなかった。
類は、静さんが藤堂の名を捨てたことさえ覚えていない。
まだ彼の中では、絶対的な存在であるはずの彼女…。
その彼女が幸せな家庭を築いている現実など、今の彼に告げられるはずもなかった。


「…牧野は」
類が唐突にあたしの名を呼んだので、あたしは俯き加減だった顔をパッと上げた。
「俺と、ずっと親しかったの?」
「…うん」
―親しい、という言葉だけで表せるような関係じゃないのに。
あたしは泣きそうになるのを、奥歯を噛みしめてぐっと堪え、必死に言葉を探す。
「…高校の時から、る…、花沢類にはいろいろ助けてもらってて…。縁あって、今まで交流があったの」
類は思案顔になる。
「あんたを見たら、6年経ったのは本当だと思えた」
「えっ?」
「この中じゃ、あんたの外見が一番変わったから」

彼の記憶の中では、長かった髪を三つ編みにし、高校の制服を着たあたしがベースなのだろう。その頃から比べるなら、あたしは確かに変わったはずだ。
髪は短くなり、多少なりと化粧を覚え、…いまはその頃よりも痩せている。


類はふいっと顔を背けた。…あたしへの興味など失ってしまったかのように。
「…疲れた」
吐息と共に発されたその言葉に、黙って成り行きを見守っていた真悠子さんが類を気遣う。
「驚くことがいろいろあって、疲れたでしょう」
類は小さく頷く。
「…俺達は、そろそろ帰ります」
それ以上は話ができないと踏んだのだろう。美作さんがそう申し出ると、真悠子さんは深々と頭を下げた。
「来てくださってありがとうございました。どうぞ今後とも類をよろしくお願いいたします」
「はい。…類、また来るからな」
彼からの返答は、なかった。


あたしは病室を出る間際、ベッドサイドの机の上に投げっぱなしになっていた課題を回収するために、類の傍に近づいた。だけど彼はあたしを一顧だにせず、こちらに背を向けて横になった。
その背からは、強い拒絶を感じた。
―類は今、一人きりになりたいのかもしれない。
強いてそう思えど、あたしは失意を隠せない。
音を立てずに、縫い針を付けたままの布地を持ち上げると、真悠子さんに一礼をして病室を出た。
真悠子さんの悲しそうな瞳が、あたしを見つめて潤んだのが分かった。
…ひどく、惨めな気持ちだった。


付き添いのため、寝泊まりに使っていた待機室に荷物を取りに戻る。
真悠子さんと話し合った結果、今夜からあたしはマンションに帰ることにした。
彼との思い出が溢れる部屋に戻ることは、今のあたしの失望や焦燥に更なる負荷をかけることだろう。だけど、病院で寝泊まりすることには体力的な限界を感じてもいたし、婚約者としての立場を隠している今はむしろ、ここを離れるべきだった。

のろのろと自分の荷物を纏めていると、部屋のドアが軽くノックされ、西門さんと美作さんが顔を覗かせた。
「荷物が多いんなら手伝ってやるぞ」
「…うん。でもそんなに多いわけじゃないから…」
持参したキャリーバッグに荷物を詰め終わると、自分でも運べるくらいの量だったのに、美作さんが荷物を引き取ってくれた。
「マンションに帰るんだって? お前、一人で大丈夫か?」
「…分かんない。でも今は、類の意識が戻ったことを素直に喜ぼうと思うの」
事態は決して楽観視できないけれど、最悪の場合は意識が戻らないとまで言われた類が、ようやく長い眠りから目覚めてくれたのだ。
「屋上で思いっ切り泣いたし、なんとか頑張れると思う」
さすが牧野、と西門さんが言ったのは、きっと褒め言葉としてだろう。


久しぶりに帰ったマンションは、ときどき康江さんによって掃除されていたこともあって、長く放置されていたとは思えないほど清潔に保たれていた。
壁に掛けたカレンダーがまだ6月の暦のままなのを見つけて、おもむろに紙を捲って剥がす。
7月7日に丸印がしてあり、類と遠出する約束が果たされなかったことを苦い気持ちで噛みしめ、無言のままもう一枚を捲る。
彼らの手前ああは言ったけれど、あたしにはこれからどうしたらいいのか、まったく見当もつかなかった。
シンクに置いてある一枚のメモを見つける。
康江さんの字で、冷蔵庫に夕食を準備してある旨が書いてあった。真悠子さんが帰宅するあたしのために、康江さんに指示を出してくれていたのだろう。

あたしは夕食を摂るよりも前に、まずママに類が目覚めたことを電話で報告した。
そして、彼が実に6年分もの記憶を失ってしまったことも。
類は牧野家の家族を誰も覚えていない。だからしばらく見舞いには来なくていいことを告げると、ママは驚愕のあまり口がきけないようだった。
「…それで、あんたは大丈夫なの?」
大丈夫か、そうでないかの二択しかないのなら、あたしは後者だ。だけど、遠方にいるママ達をこれ以上心配させないためには、努めて明るく振舞う他なかった。

「うん。みんなに支えてもらってるから…」
「だって……婚約はどうなるの…」
「…分から、ない」
長く、重い沈黙が下りる。
電話の向こうで、ママどうしたの?と問うパパの小さな声がした。
「明日から検査と治療が始まるの。また経過を知らせるから。…パパと進にも伝えておいてくれる?」
グスッと鼻を啜る音がして、ママが涙ぐんでいるのが分かった。
ママの悲しみは、あたしの胸にも染み入って涙腺を刺激する。
「…分かった。類さんが良くなったらすぐ知らせて。あんたも…無理はしないでね」


ママとのやり取りだけでひどく憔悴しょうすいしてしまったあたしは、桜子達にはメールで報告することにした。類の意識が戻ったこと、でも記憶が混乱しているのでしばらく見舞いにきてもらうことは難しい旨を書き、送信した。
詳しい病状については触れることができなかった。
今の類は、牧野家だけでなく、桜子のことも、優紀のことも、滋さんのことも覚えていないはずだ。各々からメールは返信されてきたけれど、あたしにはもうそれを開けて見る気力さえなかった。


準備された夕食を温めて黙々と食べ、すぐに皿を洗い終える。
バスタブに湯を張って疲れた体を湯船に沈めると、もう立ち上がれないほどの倦怠感が体を包んだ。瞳を閉じれば、優しかった類の笑顔が浮かんで、どうしても涙がこらえきれなかった。
頬を伝い落ちた涙は水面を小さく揺らし、そうであるはずはないのに、あたしの涙の雫だけが湯船の底にゆらゆらと沈んでいってしまうかのようだった。




ブログ村のランキングに参加しています ポチッとお願いします☆


拍手ありがとうございます! 暗い展開で申し訳ないです(^^;)
関連記事
スポンサーサイト



0 Comments

Post a comment