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2-16

Category第2章 解れゆくもの
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その瞬間から、まるで、時が止まってしまったかのようだった。
あたしは目の前で起きていることが理解できずに息をつめ、体を硬直させた。
夕闇で陰になった類の表情ははっきりとは窺い知れない。
彼もしばらく動きを止めたまま、横たわったあたしを見下ろすようにしていたけれど、やがて身を屈めて、ゆっくりとあたしに覆いかぶさってきた。
そのまま、強く抱きしめられる。
狼狽え、身じろぎするあたしを宥めるように類は言う。
「…少し、このままでいさせて」

動悸が激しくなる。耳の奥でドッドッという音がする。
彼の規則正しい呼吸を、直に肌で感じ取る。
あたしはできるだけ息を潜め、彼の動きに全神経を集中させた。


やがて、類はあたしの首筋に唇を寄せた。温かな感触が喉元を滑っていく。
それと同時に、彼の手が服の上から体を撫でるように動き始める。
彼の意図は明らかだった。

…えっ!?

その段になって、張り付いたように動かなかった舌が硬直から解けた。
「ま、…待って!」
腕を突っ張って類の体を遠ざけようとすると、その手首を取られてベッドに押し付けられてしまう。彼はあたしの耳朶を口に含んで軽く歯を立てた後、耳の下にきつく吸いついてきた。
「…ぁっ」
ツキンと走ったその痛みに、あたしの体は意志に反してビクッと震えた。


「あたしのこと…どう思ってるの?」
少なくとも彼が目覚めて以降、彼から自分に向けられた目線の中に、友情であるとか愛情であるとか、そういった好感情を一切感じ取ることができなかった。
だからこそ、この状況が理解できない。
「…あんたは、俺が好きなんだろ」
ややあって、耳元に届いた彼の低音。
言葉の意味が理解できたとき、言いようのない悲しみがあたしの心を貫いた。


彼が苦しみの中にいるのなら、彼を救うための一助になりたい。
進むべき道に迷っているのなら、彼の目指すべきともしびに、その道標みちしるべになりたい。
ずっと、ずっとそう思ってきた。
だけど今、彼があたしを求めるのは、そうした手助けが欲しいからではなく、単に男性としての欲求を満たしたいだけではないのか。
そう思うと、どうしようもなく悲しかった。


「ダメだよ、類」
あたしがはっきりとした口調で告げると、類の動きがピタリと止まった。
唇と唇が今にも触れそうなほどの距離で。
ふっと彼の吐息がかかる。
「…あたしは…類が好きだよ。でも、類は、…今は違うでしょう?」
愛のない繋がりは、たぶん、虚しさしか生まないだろう。
「衝動的にこんなことをしても、類のためにはならないと思う。…あたしも、気持ちの伴わない関係はつらいから…」


手首を掴んだ力が緩み、ドサッと音を立てて彼はあたしの横へ倒れ込んだ。
大きなため息を吐いた後、彼は沈黙した。
「……類」
たぶん、あたしは彼の行動に傷ついていた。
…だけど、なぜか、それ以上に彼も傷ついているように感じた。
あたしは自由になった両腕で類の頭を胸元に引き寄せ、そっと彼を抱きしめてみる。
今度は彼が身を強張らせる番だった。


…あぁ、と思う。
腕の中に彼がいて、こんなにも近くに彼を感じられるのに。
お互いの心は、なんて遠くに隔たってしまっているんだろう…。



類は何も言わなかった。あたしの腕を拒むこともしなかった。
あたしが彼を抱きしめる格好のまま、時間だけがゆっくりと過ぎた。
「……ごめん」
類の無機的な声がしたのを機に、あたしは彼から手を離す。
彼はすぐに身を起こした。
「あんたをどう思ってるのかって聞いたよね」
ベッドサイドに腰かけたままで、彼は言う。真っ暗になってしまった部屋の中で、類の声だけが感情を含まずに響く。
「…俺を、助けてくれる存在じゃないかと思った」
その言葉に胸を打たれて、あたしは咄嗟に声を発することができなかった。
「夜が来ると、どうしようもないくらいの焦燥感が湧き上がってくる。一刻も早く帰らなければ、と思う。でも、どこに帰ったらいいのかが分からない。…その繰り返しで、苦しい」

―類だ!

それはきっと、記憶を失う前の彼の思念だ。
あの日そうであってほしいと望んだように、類はマンションに帰ろうとしてくれた。
一刻も早く、と思ったかもしれない。
そうして、あの恐ろしい事故に遭ったのだ…。

「…あの日、類を送り出すとき、どうしてか不安で仕方なくて…。類は、早く帰るからって約束してくれて…。だから、類がそう思うように仕向けたのはあたしなの…」
あたしは、こみ上げてくる涙を堪えることができなかった。
マンションの通路の先で、最後にあたしを振り返って微笑んでくれた彼。
類から日常を奪ったのは、自分だったのかもしれない。
そう思えて…。

「…ごめんね……ごめんね、類…」
暗闇に向かって、何度も、何度も謝り続ける。
あたしが謝りたかったのは、此処にいる彼だけではなく、記憶を失う前の彼にもだ。
それを察してか、類は無言のまま、あたしをただ泣くに任せた。




プルルル、と内線電話が鳴り始める。
類は室内灯をつけると、すぐに電話に応対した。
「…夕食の準備ができたって」
あたしはベッドに横たわったまま、涙に濡れた瞳で戸惑いがちに類を見上げると、ほんのわずかな笑みが返った。
「ここに運んでもらう?」
あたしは首を振る。
「ダイニングに、行くよ」
類は手短に返答をして、電話を切る。あたしはのろのろと身を起こした。
本当は食事をしたい気分ではなかったけれど、この時刻まで邸にいたのなら、当然ながら康江さん達には気を遣わせてしまったはずだった。
「…ごめんなさい。メイク、直してくる」

類の部屋の奥には洗面台とバスルームが備え付けられている。
鏡に映った自分を見て、あたしははっと耳の下を押さえた。
傍目にもはっきりと浮かび上がった鬱血痕…。
だけど、その印には何の意味もない。
あたしは陰鬱な気持ちのまま、コンシーラーとファンデーションでその痕を隠すと、準備を終えて洗面所を出た。




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