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2-25

Category第2章 解れゆくもの
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「ごめんなさい。突然泊めてほしいなんて言い出して…」
あたしが頭を下げながらそう言うと、菜々美さんはマグを差し出し、ふふっと小さく笑った。
「なんの、なんの。うちはいつでも大歓迎だから」
季節は晩秋。今日は朝から悪天候だったこともあり、終日肌寒さが付きまとった。マグを満たす紅茶はいい香りを立ち上らせ、あたしの不穏な心と冷えた体をゆるりと温めてくれる。


今朝深い眠りから目覚めると、隣に類の姿はなかった。土曜日だからといって彼が休日であることはない。
そのことに小さく安堵しながら身を起こそうとし、…自分の体に残された情痕に気付いて、あたしは動きを止めた。
…決して、乱暴に求められたわけではない。それでも、そこにあたしの意思はなく、心身の疲弊は無視できないほどに大きかった。
強い自己嫌悪と類への負の感情とに呑み込まれて、あたしは静かに涙をこぼした。


もう気づいてもいい頃だったと思う。
類は、やっぱり以前の類とは違うことに。


いみじくも彼自身が述べたように、過去の彼と今の彼とは考え方が違う。
振り返ってみれば、今の類はあたしの学校や就職のことに関しては、ずっと無関心を貫いていた。このまま彼の記憶が戻らないと想定し、その彼と添い遂げようと思うのならば、今の考えを尊重する他ないだろう。
もともとデザイナーの道は、類に無理を押して支えてもらっていたことだった…。

そして、今の二人の間には優位性がはっきりと表れている。
類が主体であり、以前のようなfiftyフィフティfiftyフィフティの間柄ではない。
昨夜彼を拒んだにも関わらず、こちらの意思を受け入れてもらえなかったことは、あたしに決して小さくはないショックを与えていた。
体を求め合うには、互いの愛情をもって臨みたい…。だけど、あたしはまだ、類から向けられる感情が正しくそうであるのかを掴みかねている。


いったん悪い方向に考え始めると、もうどうにも止まらなかった。
陰鬱な気分のまま夕方を迎え、もうすぐ類が帰ってくるかもしれない、と思うと、あたしの胸中は不穏に揺れた。
思い悩んだ末に、菜々美さんに電話をした。菜々美さんは二つ返事であたしの願いを聞き入れてくれ、あたしは手早く準備をするとマンションを飛び出していた。
類へは、置き手紙もメールもしなかった。


菜々美さんのマンションでは、一緒に夕食を作って食べた。顔馴染みになっている妹さんやお母さんに温かく迎え入れられ、あたしは久しぶりに和やかな気持ちで食卓を囲んだ。しばらくは学校でもつらい状況があって、あたしの心は疲れ切っていた。

「…それで、どうしたの? また、うまくいってないの?」
入浴を終え、菜々美さんの部屋で紅茶を飲んでいると、彼女に優しく問われた。
彼女にすべて打ち明けてしまいたい、という欲求を抑えるのには、相当な気力が必要だった。
「…また、というか、ここ最近はずっとうまくいってる感じがなくて…」
「そうなんだ…」
菜々美さんはため息をつく。
「『fairy』の内定を辞退して、彼の会社に入るように言われました」
「……!! そっか。そういうこと…」
ここにいる理由はそれだけではなかったけれど、他のことは口にはできなかった。
「花沢さん、あんなにつくしちゃんの夢を応援してくれていたのにね。…状況が変わってしまったの?」
「はい…」

本当に変わったのは類自身だ。6年間の記憶を失い、それでも苦難を受け入れ、日常の生活に追いつこうとしている彼。
現在の自分を本来の自分として、その同一性を確立していこうとしている。
そのこと自体は決して悪いことではない。
でも、だからこそ、あたしは苦しい…。


「つくしちゃんは、どうしたいの?」
「…分かりません。…ちょっと…混乱してて…」
声が震える。鼻の奥がツンと痛くなり、気づいたらあたしはもう泣いていた。慌てて指先で涙を拭い、それでも後から後から溢れ出してくる涙の対処に困り、泣き笑いになる。
「…我慢しないでいいよ」
菜々美さんの言葉がじんわりと胸に沁みて、あたしは膝を抱え込んで泣いた。
泣いても何も変わらないことは分かっている。
だけど、揺れる感情を抑えることができない。
菜々美さんは黙って傍にいてくれた。一人で泣くよりもずっと心強かった。


一頻り泣いて、しゃくり上げながらも、ようやく涙を止めることができたあたしに、菜々美さんが言う。
「…もしさ、自分が彼に就職を諦めて家庭に入ってくれって言われたら、どうするかを考えてみたの」
あたしは目線を上げ、菜々美さんの瞳を見つめる。
「迷うだろうなぁって。だってさ、もし離婚したり死別したりしたら、女一人で生きてはいけないじゃない? うちはそれで母さんがすごく苦労してるし」
菜々美さんのお父さんは、菜々美さんが高校生のときに事故で亡くなっている。当時、職に就いていなかったという菜々美さんのお母さんには、大変なご苦労があったことだろう。
「つくしちゃんの場合は、家庭に入ることじゃなくてご実家の会社に入ることだけど、でもそれだって同義だと思うの。…子供ができたら、すぐにその問題に直面することになるだろうし」
あたしは頷く。

「デザイナーの夢、すぐに諦められるかって言われたら、きっとわたしでも悩む。悩んで悩んで、やっと出した答えにまた悩んで…すごく苦しいと思う」
あたしは今の状況が苦しい。選択肢がないことが苦しい。
花沢物産本社には元より服飾部門がない。関連会社にならそういった部門もあるけれど、類が指しているのはデザイナーとしての就職ではない。
経営者一族としての責務、その後継者の妻としての働きを求めているのだ。
本来なら、彼のプロポーズを受けるときに了承しておくべき事項だった。


『牧野は牧野らしく、そのままでいてよ。…何かを取り繕ったり、自分を偽ったりもしないで』
『デザイナーの夢も諦めないで。夢を叶えるために頑張ってるあんたを、全力で応援したいんだ』
遠い春の日、彼はあたしにそう言ってくれた。夢を諦めるなと力強く言った類の、輝くような笑顔が思い浮かんで、胸が塞ぐような思いがする。
―逢いたい。
―あの日の類に逢いたい。
どんなに無理な願いだと分かっていても、あたしはあの日に帰りたいと切実に願ってしまう。




そのとき、あたしの携帯電話が着信を告げた。
相手は見なくても分かる気がした。
「…つくしちゃん」
菜々美さんが躊躇いがちにあたしを見る。
あたしは振動する携帯電話を凝視したまま、指先ひとつ動かすことができなかった。
留守番電話サービスに切り替わった瞬間に着信は途切れ、その直後メールが届いた。
類からだった。
逡巡を繰り返した後に開いたメールの、メッセージはたったの一文だけ。
『すぐ帰ってきて』

迷った末に、あたしも一文だけ返信をする。
『今日は帰りたくない』
すぐに応答がある。
『つくしが出てくるまで、下で待ってる』
その返答にあたしはドキリとした。
携帯電話にはGPS機能があったことに思い至る。

―類は、もう、このマンションの下まで来てるんだ…。




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帰省中でしたが、なんとか更新できました…(^_^;)
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