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Category第2章 解れゆくもの
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―目に見えぬものを、どう信じていくのか。

問われてすぐ思い浮かんだのは、自分の家族のことだった。
先ほども進と話していて、あたしは家族との温かな絆を思い出していた。それだって目には見えないものだけれど、あたしはその繋がりを強く信じていられる。
なぜなら、あたし達には過去があるからだ。
互いを思いやり、助け合ってきた過去があるからだ。

今の類とあたしの間には、目に見えぬ絆を信じるに足るだけの過去がない。
まして、あたしは以前の彼がどうだったかを鮮明に覚えていて、かつ、それを追い求める姿勢を彼に示してしまっている。それはあたかも今の自分に対する否定のように、彼の目には映っていたことだろう。
そうだとしたら、あたしが彼に言えることは一つなのかもしれない。


「…これからのあたしを、信じてくれないかな」
やっと声になった言葉は、自分でも驚くほど震えていた。
「確かに、あたしには戸惑いがあったの。ふとした瞬間に、以前の類だったらって思うこともあって。……ごめんなさい。きっと、すごく不愉快な思いをさせたよね…」
彼からの応答はない。
「類が失ってしまった記憶は、あたしにとってはどれも大切なものばかりで、…だから、それを思い出してくれたら、…また以前のような二人に戻れたらって、心の奥でずっと……ずっと願ってた」

―あたしは、本当に彼を愛していたから。
でも、たぶん、もう彼には逢えない。
そんな気がする。
熱い涙が目の片端から溢れ、横に伝い落ちていく。

「だけど、記憶がなくても類は類であって、日々を暮らしていかないといけない。記憶が戻ることを前提に生きるより、戻らないことを前提にした方が苦しまずにいられるんだって、今なら素直に受け入れられるの。…過去を思い出してほしいと願い続けるのは、あたしのエゴよね。…それも、分かってるんだよ…」
あたしは、話し続けた。今話すのをやめてしまったら、きっと悲しみが心を支配して、嗚咽をこらえる自信がなかった。

だけど、類に伝えたい。
今の彼に、伝えたい。
これから先にもあたし達の進むべき道があるとするなら、まさしくこの瞬間が分岐点なのだと。


「…あたしは、これからも類と生きていきたい。もう過去を見ないで、というのならそうする。内定を辞退してほしい、というのならそうする。…あたしには、類以上に大切な物はないから。…だから、……だから、あたしを信じて。…類を想っている、この気持ちを信じて。……たとえ、それが目に見えないものでも、確かにここに在るんだと…それだけは信じていて…」

―夢を諦めることになったとしても、それがあたしにできる精いっぱいだから。



髪を撫で梳くように、類の手が柔らかく動いた。
「つくしの気持ちは分かった。…俺の気持ちを言うよ」
あたしはこくんと頷いた。
…覚悟はできていた。
あたしには、もうこれ以上のことができない。
それでも信じることができないと言われたのなら、その時は……。


「長い眠りから覚めて、すぐ思い浮かんだのは静のことだった。俺が事故に遭ったのに、なぜ彼女はここにいてくれないんだろう、と。…ひどい言い方にはなるけど、傍にいてくれたつくしには、何も感じなかった」
病室であたしを見つめた彼の、あの温度のない視線を思い出す。
類の気持ちは分かっていた。

だから、あたしは自分が婚約者であることを、伏せていてもらったんだもの。
類に求められない自分が惨めで、それがつらくて苦しくて泣いたんだもの。

「そのうち静との過去を知って、ひどい喪失感を覚えた。積年の想いを遂げながらもうまくいかなかった過去にもショックを受けたけど、今の自分が抱えていた想いも同時に行き場を失ってしまって、すごく…苦しかった」
結局、彼は二度、静さんを失ったのだ。
高校生当時の彼の苦悩を憶えているあたしには、この件によって彼がどれほど傷ついたのかは推し量りかねる。深く、大きな喪失だったろうと思う。

「つくしが俺の婚約者だったと知ったとき、あんたがどんな気持ちで傍にいたのかを考えてみた。……あんたは過去を押し付けなかった。俺にとっての今の苦しみを、必死に理解しようとしてくれた。俺はあんなに冷たい態度をとったのに。……その姿が、いじらしいと思った。その気持ちに応えるべきだと」
すぅっと胃の奥に冷たいものが滑り落ちていくような錯覚を覚える。
「……あたしを、憐れんでくれたのね?」
「違う。あくまで俺がそうしたかったからで、憐れみや同情からじゃない」

本当にそうなのかな。
類はただ、寂しかっただけじゃないの?
あたしが不憫ふびんだっただけじゃないの?
だから、愛せたらいいって言ったんでしょう?
…静さんの代わりに。

ふいに鈍い痛みが鳩尾みぞおちあたりから発されて、あたしの吐息を浅くする。
部屋が暗くてよかったと思う。
自分が今、どんな表情を浮かべているのか、まったく想像できない。
それを彼に見られなくてよかったと思う。



「温もりを覚えてからは、あんたのことが手離せなくなった。…つくしには大切なものがたくさんあったけど、そのことでイライラしてしまう自分を自覚した。あんたには、他の何をおいても、俺のことを優先してほしいと思うようになっていった。独占欲が愛情のバロメーターだというのなら、俺は、確かにあんたを愛しているんだと思う。でも……、愛することがどういうことなのか、本当は、よく分からないんだ…」

次第に強まっていった彼からの束縛。
閉じ切られた箱庭のような、二人だけの世界。
だけど、あたしはそこに息苦しさを感じていた。…逃げ出したいと思ってしまった。
その気持ちが最大限に高まったのが、マンションを飛び出たあの夕刻だったのだ。
彼とともに生きるということは、その狭小な世界を受け入れるということだ。

…だけど、それでもいい、と思う。
あたしは、類を、失いたくない。
類が事故に遭ったあの夜、彼の命を引き留められるなら何を引き換えにしてもいいと祈った願いそのままに、今この瞬間、彼を失わずに済むのならあたしはどんなことでもしようと思った。


―類が、あたしを、信じてさえいてくれるのなら。


類がそこまでを話し終えた時だった。
先ほどから感じていた胃の不快感が急激に悪化し、あたしは強い嘔気を覚えた。
「………ぅっ」
その呻き声に、類は即座に反応した。
「なに?」
「…ごめ……気分が…」
口元を覆って彼の腕の中から抜け出し、ふらつく足で暗がりを進んだ。
リビングに出て明かりを点け、キッチンのシンクに縋って嘔気をやり過ごす。
「……うっ……ゲホッ」
二度、三度と咳き込むが、唾液以外、吐くものはほとんどなかった。
鳩尾に刺し込むような痛みがキリリと走り、その痛みにあたしは喘ぐ。
―痛い…。あたし、どうしちゃったの…。


気づけば、あたしの背を撫でさする類の手を感じた。
「大丈夫?」
「…うん。………うっ…」
嘔気は繰り返しこみ上げ、それが落ち着くまでにはしばらく時間が必要だった。
ようやく治まってきた頃、涙目のまま浅い呼吸を繰り返すあたしに、類が小さな声で問うた。
「…あんたさ、……もしかして、妊娠してない?」
「………っ」
あたしは顔を伏せたまま、目を見開いた。
そして、思い至る。
今月はまだ月のものが来ていないこと、…そして、それが遅れているということに。




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いつも拍手をありがとうございます。この回、非常に苦労しました…。
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